遠い未来、脳データの複製技術が生まれ、アンドロイドとして生きることができるようになる可能性はゼロではないらしい。
今、死から逃れることのできる者は誰一人として存在しない。誰もが自分自身の、あるいは身近な誰かの死と向き合わなければならない。
しかし、その技術が開発されれば、死は身近なものではなくなるかもしれない。
「死」が失われれば「生」の概念は希薄化する。
確かに、死は切なく悲しい、やりきれない現象だ。
しかし、生老病死に向き合うことは、人生の醍醐味とも言えるのではないか。
別れの悲しみすら、ある種の芸術なのではないだろうか。
二度と会うことができなくなるのは、ある種の美しさなのではないだろうか。
「死の消滅」によって、死の美しさや死にまつわるドラマ、永遠の別れの芸術性が失われるのは、いかがなものだろうかとも思ったりする。
故郷の家族や仲間との別れ、卒業式での同級生や教師との別れ、旅立つ友との別れ、遠くに住む恋人との長い別れ、もう二度と会わないであろう旅先の人々との別れ。
「別れ」は、美しさでありドラマであり芸術。情緒深く、趣深く、いとをかしきものであると私は感じる。
技術進歩により登場した「SNS」。
SNSは、遠くに行ってしまった人といつでも繋がること、日常的に容易にやり取りすることを可能にした。
それは便利なことだとは思う。
しかし、「別れ」の切なさや苦しみや情緒、そこから生まれる美しさやドラマや芸術性が薄れてしまう。
その人のその後や今に思いを馳せること、長年の月日を経て再会したときの感動や有り難みなどが薄れてしまう。
技術進歩により、新幹線が開発された。
東京-大阪間は2時間半で移動できる。快適で、便利だ。
江戸時代はどうだっただろう。
何日間もかけて行き来していただろう。
その間に多くの出会いやドラマ、ハプニング、そして感動があったに違いない。
快適さと便利さが得られた反面、そうした機会は失われた。
技術進歩により、スマートフォンが開発された。
それ一つで、検索も通話も撮影も友人とのやり取りも、大抵のことはできるようになった。
しかし、一方でスマホに目を落としてばかりいる人がたくさん現れはじめた。
友人らとカラオケに行っても、歌っている一人以外は皆それぞれが自分のスマホを睨んでいる、なんて事態も珍しくない。
直接のコミュニケーションがないがしろにされやすくなった。
スマホを見ながら歩いていなければ得られた出逢いや美しい景色もあっただろう。
技術進歩により、カメラが開発された。
どんな光景も、切り取って後で見ることができる。
その場にいない人にも共有することができる。伝える手段として優れている。
昔はどうだっただろう。
目の前の存在そのものを、しっかり焼き付けようとしただろう。
快適さと便利が得られた反面、今をじっくり味わう姿勢が薄れてしまった。
目の前のものを堪能するよりも、フィルター越しの世界に集中するようになった。
過去に実施されたとある実験によると、美術館で写真を撮りながら回る人とそうでない人とでは、作品の記憶に有意な差異が見られたという。
言うまでもなく、撮影していた人たちは、どんな作品があったのか、あまり覚えていなかった。
写真を残すことばかりに夢中になって、肝心の現物への意識が弱まるからだ。
私も写真は好きだが、そのせいで今この瞬間を堪能することを忘れるのは寂しいこと、大きな損失だと感じる。
技術進歩は世の中を便利にする。
しかし、同時に独特の美しさ、ドラマ、芸術が失われてしまうのだ。
ただ、技術進歩によって新たなドラマが生まれてきたことも事実だ。
文字の発明は小説というドラマを生み出した。
インターネットの発明はオンラインでの出会いというドラマを生み出した。
枚挙に暇がないが、技術進歩によって兎にも角にも無数のドラマが生まれてきた。
これまでの美が、ドラマが、芸術が薄れ失われる代わりに、新たな美が、ドラマが、芸術が生まれてきた。
だから、もしもの世界かもしれないが、これからずっと先の世界で、本当にアンドロイド技術が発明されて、生老病死の概念が希薄化したとしても、きっと新たな美しさ、ドラマ、芸術性が生まれているのだろう。
もっとも、今の世界が当たり前の我々には、到底受け容れることなどできないのかもしれないが。
2017.07
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