前回の話はこちら。
その日の夜、二度目のセレモニーは、前回とは違う、森のさらに奥にある小屋で行われた。
今度こそ何か見えるだろうかとやはり期待していた。
あったのは、絶望感だった。
炎天下の砂漠の中で目も見えず、ドロドロに溶ける砂糖菓子でできた腕で、砂に埋もれゆく何かを必死に拾い上げようとするかのような、果てしなく苦しいイメージが脳内に浮かぶ。
それから、普段は思い出すことのない、懐かしい光景の数々。
結局何も分からないという不安、逃れようのない息苦しさと、抜け出すことのできない閉ざされたイメージに、身も心も虐待されただけだった。
方向感覚が、距離感覚が、失われる。足下はふらつく。地面に這いつくばって、何度も嘔吐した。
今回も、「ビジョン」というものは見えなかったように思う。
小屋の中でそのまま眠りに就いた。
蚊があまりに多く、その耳障りな音にストレスを溜めた。
翌日、蚊帳に包まれた薄い二段ベッドの上に横たわり、昔の写真を見返していた。
大学入学直後、学園祭、免許合宿、今も仲良くしている人たちと出逢った頃。あっという間の数年間だった。感慨に耽る。
まだ昼の12時を過ぎたばかり。途方もなく長い一日。早く終わらないかとばかり考えている。
初めてのアヤワスカを飲むまでは、何度でもやってみたいと思っていた。しかし、苦しみばかりが先行した。
決して楽しいものではなかった。意味があるのか、時間やエネルギーを割くに値するものなのか分からなかった。
あんな不味いもの、できればもう二度とごめんだ。そんなものを、あともう1回飲まなければいけないのが憂鬱だ。
飲まなくちゃいけないのか分からないけれど、ただ苦しいだけで終わるのかもしれないけど、それでも何かに期待している自分がいる。コンコルド効果みたいなものか。これから先、そんな受け身な人生は送りたくないものだ。
アヤワスカだけならまだいい。ジメジメした暑さと大量の蟲たちに、体力も精神もジリジリと追い詰められていく。
追い払っても追い払ってもウザったい羽音とともに何度もやってきて、平然と人の血を奪って要らない痒みを残していく。人間は言うまでもなく利己的だが、自然もまた利己的だ。
人の笑い声や話し声すら耳に触り、憎悪の感情を喚起する。全く理解できない現地語の音やアクセントに生理的な嫌悪を覚える。頼むからその下品な笑い声を響かせるなと心のなかで叫ぶ。
人の声に苛立つのは今に限ったことではなかったが、心の余裕が時に比例して失われていっている。生産的なことをする気力が沸かない。何をすればいいのか分からない。無益に流れる時間。
「“暇”なんて退屈な(boringな)人間の戯言だ」と思っていた。こんなに“暇”を感じたこと、これまであっただろうか?
自分にとって本当に大切なものは、どんな人生を歩みたいかは、頭ではずっと分かっている。
誰かとの温かい関係(愛や友情)、勇気を伴う刺激的な冒険、活躍すること、一目置かれること、大切にし、大切にされること、合理的なこと、自由に生きること…。今はそれらとは隔離されている。
耐える必要があるのか?でも自分でなぜか決めた。最初に決めた1週間だけは、ここにいようと。そうやって決めた自分ルールのせいで消耗し、不幸を歩む人は数知れないこの地球で、私もまた同じ道を選択するのか。
私にはアヤワスカなんて必要なかったのかもしれない。
アヤワスカを通して自己発見だとか自己改革が実現したり、宇宙の仕組みが分かるなんてことが言われているけれど、本当にそれが可能だとしても、そんなフェーズは私には要らないのかもしれない。少なくとも今の私には。そう解釈することもできる。すべては解釈次第。たとえ事実がどうであれ、解釈というレンズを通すことでしか、我々は世界を認知できない。
ところで私には小さい頃から、無人島でサバイバルをしてみたいという思いがある。しかし、一人ではやりたくない。気心の知れた仲間とともにやりたい。そんな存在がここにいたなら、状況はもう少しはマシだっただろう。
とりあえず今は、温かくシャワーで身体を綺麗に洗いたい。美味いものをたくさん食べたい。友達と話したい。パソコンを触りたい。ギターを弾きたい。暑くて蟲まみれの場所は、ウンザリだ。
この日は何事もない1日を過ごし、明日の夜には最後のアヤワスカを。その翌日にはここを出て、イキトスで態勢を整えて、船でアマゾン川を下り、レティシアへと向かおう。そしてボゴタへ帰ろう。
2018.10
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