先日、先輩に勧められたゴールデン街のバーを訪ねた。
オーナーとその友人であり常連らしき方は、尖った人たちだった。典型的な社会的マイノリティ要素を持つ2人は、社会の様々な理不尽への怒りを若い頃から強く抱きつづけ、学生運動や研究などに身を投じてきたという。今も彼らのやり方で、様々な怒りを行動で表しているらしい。
人は生きている限り、たびたび理不尽に遭遇する。
最初のうちは怒りを感じていたとしても、世の中そんなものだと次第に納得し、それを良しとしてしまったり、目を瞑ってしまうようになる。世渡り上手になっていく。だって理不尽を解消するのはとても骨が折れるし、大抵時間がかかるから。そうこうしているうちにその状況に慣れ、あるいは当事者の立場から離れていき、いつしか怒りは薄れていく。
何が良くて何が嫌なのか、自分の本音が摩耗し、消失していく。違和感を違和感と思わなくなり、本来的に望んだ方向が分からなくなっていく。
「何か怒りはあるか」などと尋ねられ、パッと何も浮かばなかった。「怒りのない人は信用できない」とオーナーは言った。こんな社会のままではいけない、こんな理不尽をどうにかしたいという怒りもそうであるし、ましてやもっとミクロな、実生活において違和感に抵抗どころか認識すらできなくなった人は、もはや魂を失っているということだろう。
激しい怒りは生きる糧、原動力になりうる。世の中を大きく動かした運動の根本には、激しい怒りがある。
激しい怒りがないのは恵まれていて幸せなことでもあるのだろうけれど、そんな怒りを表すという行為の中にも幸せはあるだろう。強い感情はアイデンティティの重要な一部にもなる。生の実感に繋がる。
個人としても、何かしらへの怒りを心の奥底から込み上げさせ、かつ沸かせつづけることができたなら、もっと締まりのある、もっとエネルギッシュな日々を送ることができるのだろうと思う。人生を充足させるための手段として捉えるのは本質的ではないだろうが、しかしそのような激しい怒りは、あった方がきっと人生は面白いだろう。決して楽ではないだろうけれど。
このように怒りの当事者たちの感情を逆撫でするようなことを考えてしまうのは、平和ボケした人々が戦を望む構図と似ているかもしれない。
しかし、私にはそのような激しい怒りが沸いてくるような、例えば差別や貧困や虐待などといった理不尽かつ強烈な原体験は今のところないし、何かしらの出来事に理不尽さを感じることがあったとしても、誰か他の人が反応・行動しているのであれば、他でもない自分が行動を起こさなければと感じることもない。
行動するにしても、社会的な影響力や説得力がなければ、大局的にあまり意味を持たない。そんなある種冷めた感覚でいる。
本気の怒りを抱いている人たちは、そんなこと気にせず、ただ行動するのだろう。もはや行動自体が目的化している人たちも多いだろうけれど、それでも一部の本物たちは、有無を言わず目的のために怒りつづけ、ただ行動するのだろう。
そんな怒りを抱くことのない人生だとしても、せめて日常の違和感や理不尽さに対しては、都度どう対応するかはさておき、感覚を鈍らせることなく生きていきたいものだ。
2023/8/29
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