「大学受験を振り返る」シリーズ「現役編」の続編、「浪人編」を記す。
現役受験後、東北へ
現役時代、後期試験が終了した直後、私は神奈川県のネットカフェに踏み入れた。(当時の私はネットの繋がらないガラケーしか持っておらず、自由にネットを使うことができなかった)
パソコンの前に座り、ボランティアの案件を探す。ボランティアそのものに、というよりボランティアをしている人種に興味を抱いており、なにかやってみたいと思っていたのだ。そこで見つけた「がれき撤去ボランティア」の運営元である宮城県のとある震災NPOに連絡を入れた。
早速そのNPOから電話がかかってきて話したところ、掲載されていたその募集は既に終了していて、今は心の復興をテーマに健康農業などの活動をしているという。
体力が有り余っていたがゆえに肉体系ボランティアしか考えていなかった私であったが、「それでもいいですか」という質問に対して二つ返事で了解し、二日後に行くことにした。
それから東京を数日間ブラブラ観光したあと、新宿から昼行バスに揺られ仙台へ。そこからさらに電車で移動。最寄り駅まで車で迎えにきていただき、海沿いの町の古民家にて11日間の共同生活を送りながら、土木作業、お婆さんたちとの農業、仮設住宅の寺子屋での子供たちとの交流(勉強を教えたり遊んだり)、語り部の人に付き添いながらの広報用の写真撮影、自転車での散策、復興支援に力を入れるとある歌手のライブや懇親会への参加などといった様々なアクティビティに身を投じた。なお、このとき筑波大生が私同様に1人滞在していた。
そのNPOは、被災地のことを知って学んでほしいとの思いから、未成年は滞在費1日500円で受け容れるという方針を当時採っており、私はボランティアをしたというよりは共同生活含め様々な勉強・経験をさせていただいたといった方が正しかった。
和歌山の田舎のごくごく狭いコミュニティの中で生活が完結していた高校生の私にとって、そこでたくさんの人たちと触れあえたことは、(自分の青さを自覚させられながらも)多くの学びが得られ、感情を揺さぶられる素晴らしい機会となった。
流れで予備校に入る
旅から帰ってきた私は、母校を訪問したり、友人らと一緒に旅行したりと慌ただしく動いていたが、そうこうしているうちに3月も終わりに差し掛かり、浪人生活をどう過ごすか考えることを迫られていた。
大手予備校の河合塾や駿台から、案内の書類が届いていた。説明会に行ってみるか、ということになり、その翌日(3月30日だったか)に親と一緒に大阪・梅田へ。受け身でいたら、その場で河合塾への入塾と入寮が決まってしまった。
その2日後の4月1日に家を出て、大阪・梅田にある河合塾の寮に、大阪駅を出てから重い荷物とともに2時間以上彷徨いつづけたのち、最後はタクシーに頼って到着した。
その寮は、東大・京大・医学部を目指す河合塾の浪人生のみを対象とする新築の男子寮で、北は北海道から南は沖縄まで、1浪から5浪まで、90人ほどが集まっていた。灘やラサール、愛光学園に西大和などといった有名進学校の出身者が多かった。風呂トイレ付の完全個室、朝晩の食事、自習室に共用スペース、親しみやすい寮長寮母と、快適な住環境であった。高校の同級生も2人入寮していた。
入寮早々、東京から来た一人の男と出逢う。
考え方が独創的で、独特のオーラ、カリスマ性を放っていた。
やはりカリスマ同士、すぐに仲良くなり、毎日のように、時には明け方近くまで、互いの部屋で語り合った。
彼は私立御三家・麻布の出身だった。私の母校は、校則に「男女交際禁止」と明記されているほど保守的であったが、麻布は日本一自由な高校とも言われていた。私とは大きく異なる日々を過ごしてきた彼の話はあまりに新鮮で刺激的だった。
そういえば、二人ともほぼ常に赤いパーカーを着ており、私は知らない奴らから陰で赤パーカーと呼ばれていた。
最初の授業で、辞めたくなる
4月中旬、授業が始まる。
初回授業(現代文)を受けながら、入塾したことを後悔しはじめた。
そもそも私は、授業を受けるのが苦手だ。得意な学習スタイルが自習であることをすっかり忘れていた。
授業終了後に近くのネットカフェに飛び込み、その予備校を辞める方法を検索した。(今思えば塾の職員に質問すればよかったのだが)
結果、既に一括払いされており、払い戻しは不可ということを知る。
次に、親にカネを返すにはどうすればいいかについて模索しはじめ、一攫千金を夢見て賞金付きのコンテスト情報をあれこれ調べるも、冷静に考えて難しいことに気付くのにそう時間はかからなかった。
やはり俺はここで一年を過ごすことになるのかと落胆した。
また、当初から受験へのモチベーションはかなり低下していた。
東大京大文系コースに在籍していた私は、塾内の最初の総合的なテストでコース内で上位に食い込んでいたが、今の成績がどうであれ、これから勉強しまくらなければいけないことは目に見えていた。
高校が進学校だったので、高校2年の秋くらいから学年の間で受験ムードが漂いはじめていた。そのムードをあと1年近く続けるなんてダルすぎるという気分になっていた。
現実逃避から受験を再考
モチベーションの低下は、「そもそもなぜ大学に行くのか」という「前提への疑問」を「現実逃避的に」生み出した。
私は国際関係や幅広い教養について学びたいとずっと思っていた。それは、高校時代の終わりになってから自分の知らなかった様々な選択肢の存在を知ったことによってさらに強化されたように思う。
知らなければ、ないのと同じ。浅くでいいから広く色んなことを知っておきたかった。
しかし、大学に入ったら、また授業を取って好きでもないことを含め勉強しなければいけない。それなら、大学生にならなくても、興味のある授業にだけ潜るというスタイルでいいんじゃないか。そもそも、本を読むなどすれば勉強できるじゃないか。理系でもないのだから実験なんて必要ないのだし、私はなぜ大学に行って勉強する必要がある?
そういえばそんなこと考えたこともなかった。誰もが大学進学を目指す中、その行為自体を疑うことなんてなかった。
次に、勉強以外の側面に改めて目を向けた。
大学生というステータスと特権、就職において大きな価値を発揮しうる「大卒」という肩書き、サークルなど色々やってみたいという思い、様々な人間と関わる機会、モラトリアムを延長して趣味や刺激的なアクティビティなど色んなことに手を出したいという好奇心などは、私にはかなり魅力的だった。
大学に行かないのなら働くことになるだろう。(本来は他にも色んな道があるが、このときは知らなかった)
しかし、まだ働きたくない。
伸びしろを大きくするためにも、様々な機会を知り、それらを得るためにも、やはり大学には行こうと思った。結局はあまちゃんである。
大学といっても、国内と国外の二つがある。
国外大学も少し調べた。とはいっても、当時はアメリカしか視界に入っていなかった。
しかし学費を調べて、その高さに驚愕した。ただでさえ浪人で親にカネをかけさせてしまっているのに、これは厳しい、と思った。言葉の壁から、思う存分教養を得ることはできないのではないかとも感じた。
今考えればコミュニティカレッジや、学費の安いインドやドイツの大学などという選択肢も充分に有り得たわけだが、当時は知らなかった。
「まずは日本で」。一周回って日本の大学に回帰した。
今振り返ると、色んな大人と会話して視野を広げるのが手っ取り早かっただろう。
大学を選び直す
では、どの大学に入るか。
それまでは東京大学以外はほぼ見ていなかった。
最初は幅広い教養を学び、それから国際関係を学びたいと漠然と思っていた私は、東京大学の後期教養学部 教養学科 総合社会科学分科 国際関係論コースに進みたいと、それまで考えていた。
しかし、そのコースに進むためには、入学後も進学振り分け競争でエリートにならなければいけないことは分かっていた。
入学後も、受験勉強みたいなことはしたくない。しかも、もしそこに入れなかったら、自分の学びたいはずのことが学べなくなる。
「それなら、最初から自分が学びたいと思えることを学べるところに行った方がいいんじゃないか」。
国際系の学部のある、あるいは国際系に近いことが学べる全国の国公立大学を調べ始めた。私立大学は調べなかった。学費が高いからというのが大きかった。
・大阪大学法学部国際公共政策学科
・大阪大学人間科学部人間科学科
・東京外国語大学国際社会学部国際社会学科
・筑波大学社会国際学群社会学類
・筑波大学社会国際学群国際総合学類
・神戸大学国際文化学部国際文化学科
……
志望校選びの他の大きな軸として、現役時代と変わらず、都会もしくは都会に近い立地というものを掲げていた。
それは、和歌山という田舎で育ったことにより、田舎における様々な機会の少なさをよく知っており、数多のチャンスや刺激を得たいという思いがあったからであった。
現役時代は東京一択という考えだったが、先述の一人旅の中で東京を数日間廻ったことで、その人混みなどに辟易し、都会はたまに来るくらいでもいいかもしれないと思うようになり、大都市へのアクセスの良い「近郊」でもいいと考えていた。
他にも、広く浅く色んなものに触れたいという先述の思いから「他の学部の授業が受けやすい」「全国区である」「総合大学である」、周囲のレベルがある程度高い方が刺激的であるとの考えから「ある程度偏差値が高い」、勉強以外のことにも色々手を出したいとの思いから「単位認定が厳しすぎない」、その他「入試難易度が(自分にとって)あまり高くない」などという条件をつけた。
志望校を絞る
その結果、阪大か筑波という選択肢が濃厚となった。
阪大は地元に近く、高校時代に仲の良かった友達もそこそこいる。
しかし、それまでずっと関西にいたので、関東に行きたいという思いは強かった。
また、筑波の体育専門学群も視野に入れたことがあった。さらに一時期、私立で学費が高いとはいえ慶應義塾大学の総合政策学部にもカリキュラムや学べる範囲の広さといった点で興味を抱いたこともあった。
学びの内容としては広島大学総合科学部と大阪大学人間科学部に最も関心が向いていたが、前者は主に立地の点で、後者は高校時代に片思いをしてフラれた相手が既に入学していたため「追いかけたと思われたくない」という妙なプライドから、選択肢から除外された。
さらにネカフェであれこれ調べるなどする中で、5月半ばには、現役時代にはほぼ考えもしなかった筑波を明確に第一志望とするようになった。
筑波の国際は、二次試験が二科目しかなかった。
東大の二次が五科目で、しかも難易度が大幅に下がることを考えると、必要勉強量はかなり落ちる。
この頃の全国マーク模試では全志望者中1位か2位だった。まあ4-5月時点での話なのでそりゃあ浪人が圧倒的に有利なわけだが、受験勉強をあまりガチらずに済むであろうことが分かり、気が楽になった。
そしてニート化
志望校を変えたことで、予備校で所属していた東大コースは受験対策として的を得なくなり、またコース変更はシーズン中は不可(秋から可)だったので、授業には全く出なくなった。授業から逃避するちょうど良い言い訳ができたという認識だった。クズな上に、完全なるカネの無駄遣いである。親のカネだが、これまでの人生で最も無意味な出費であったと思う。
時間と精神に余裕ができたことにより、それまで以上に好奇心の赴くままにネカフェであれこれ調べまくったり、中古のパソコンをネットで1万円くらいで買って、もともと興味のあった映像制作を始めたり、阪大の授業に潜ったり、高校時代の友達と遊んだり、中古自転車をジモティで買ってアチコチ廻ったり、ジモティで知り合った大学生の男とパルクールをして遊んだり、友達とひたすらふざけたメールをしたり、寮生たちとキャッチボールをしたり、たまには地元に帰ったり、女の子とデートをしたり、便利屋的なことを始めて探偵と出会ったり、映画や漫画をレンタルして貪ったりと、ニートのような生活を送るようになった。
とはいえ、勉強もたまにはしていた。しかし、モチベーションが上がらなかったことから、凄まじい波があった。
その頃、寮では毎朝10分間ほど同じ曲(アイドル系など)が全室に流されていたが、それらの曲に飽きたのでCDに好きな曲を焼いて寮母さんに頼んでいた。ささやかな楽しみだった。
曲選は先述の御三家の男と一緒にやっていたが、それで対立したこともあった。彼とはそれ以外にも価値観の大きな違いから政治的問題など様々なことを巡って何度か対立し、知り合って1ヶ月半が経った5月半ばに大きな喧嘩をして絶縁状態となった。それ以降、彼に抱いた憎しみに何度も心を呑まれることになったが、同時に寮の他の浪人生たちとの交友関係が広がり、日々は楽しくなった。
6月あたりから寮内で盗難や鍵穴ボンド詰めなどの不穏な事件が続き、監視カメラが設置されるなどした。勝手に犯人捜しをしたりもした。
寮生の中には、心を病んでいく者もいた。当時親しかった二浪の医学部志望の友人は、一浪時に別の予備校の寮の同じフロアでクリスマスの日に首を吊った奴がいたと言っていた。その他、浪人生の闇を感じることも何度かあった。
夏頃には隣の街で受験生向けの大学説明会があり、そこに出向いて筑波や他の大学の情報を仕入れるなどした。オープンキャンパスに行こうとバスを予約したが、参加には事前予約が必要ということを知り、期限が過ぎていたのでダルさもあって諦めて行かなかった。行けば何とかなっていただろうに。
たまに「この志望校でいいのか、本当は東大に行きたいんじゃないのか」という思いに駆られた。元はと言えば、現実逃避的に志望校を見直したわけであり、もし充分な学力があると仮定すると、東大に行きたいと思う自分に気付いていたからだ。この葛藤は受験直前まで続くことになる。
また、後悔しないため、そして好奇心を満たすために、5日に1回はネカフェに3-5時間ほど篭り、情報収集にあたった。その時間だけでは足りなかったので、テキストをワードなどにコピペしたりページデータを画像として保存したものをUSBに入れて自室のパソコンで見ることで、大量の情報を捌いた。
9月からは、東大文系コースから国公立文系コースへと移行した。しかし、初期を除き授業にはほぼ行かなかった。一度だけ出た英作文の授業で偶然後ろに座っていて知り合った男に絡まれ、よく飯を食べたものだった。
その後も、京都を旅行したり、ミニクルーザーを買って乗り回したり、友達と京大の学園祭を廻ったり、無断外泊でカラオケオールや友達の家に泊まってバレて怒られたり、政治に関心を持って色々調べたりと、フラフラと過ごしていた。
スイッチが入る
11月末、全国マーク模試があった。生物58点、日本史70点、地理65点など(記憶曖昧)という、筑波の国際にかからないレベルの結果であった。
日本史と地理は現役時代よりも落ちていた。また、生物は現役時代含めて6割以上を取ったことがなかったが、筑波の国際の受験においては特に配点の大きい(他科目の倍)生物でこの点数は明らかにマズかった。
私はそれまでの人生において、何か1つのことに一所懸命に取り組むという経験が不足していると感じていた。これは、自分に与えられた試練。一所懸命何かに取り組むチャンス。それを得るための1年だったのだと意味づけをしようとした。じゃあ、やるしかない。
スイッチが入り切るまで1週間後を要し、12月7日、私は本格的に受験勉強を開始した。それまで行ったことのなかった塾の自習室に行き、それまでとは打って変わって1日7時間ほどは篭って勉強した。
勉強法を模索しながら主に黄色本(センター試験対策用のメジャーな参考書)の知識を詰め込み、1週間後に過去問を解くと、生物は90点になっていた。続いて日本史や地理も、9割前後を取れるようになった。12月下旬の東進ハイスクールのマーク模試では、生物94点、日本史90点、地理86点だった。
絶縁状態だった男とは12月中に互いに歩み寄り、和解した。彼は1月中に退寮し、どこかに消えた。東大に行った、京大に行った、九大医学部に行った、琉球大に行った、大学を辞めて彼女とアメリカに渡ったなどと、のちに様々な噂が立った。死ぬまでに再会したい男の一人だ。
大晦日には、新年を迎える瞬間は何かしたいという思いから、自室でシャドーボクシングをしながら0時を迎え、その後寮の友達と自転車でピザを買いに行き、消灯された寮のロビー横に潜伏し、寮長らから隠れながら、火花の散るドライヤーで温めて食べ、初詣に行き、公園でサッカーした。
年明け
年明け後は、正月ムードで少し気が緩んでしまった。
そして1月、迎えたセンター試験。会場には机上に鉛筆を10本以上、消しゴム2個、鉛筆削りを出して試験に臨む変な奴がいたことを覚えている。(本来はセンター試験中に机の上に鉛筆削りを出してはいけないのだが)
科目ごとに使い分けているのかと思ったが、休憩のたびに全部削り直していたので、恐らく常に鉛筆の先端が尖っている状態じゃないと気が済まないタイプの人なのだろう。
また、鉛筆ごとに戦友としての思い入れがあるのかもしれないとも推測したが、いずれの鉛筆も新品同然の長さであったため、その線は考えにくい。
なお、結果は全体で8割3-4分ほどと、目指していたほど良くなかった。
センター試験後はますます気が緩んでしまったが、私立の滑り止めとして同志社大学政策学部と中央大学総合政策学部に出願して受験したり、二次試験の対策をしたりして過ごした。
そして、2月25日、二次試験。前日に上京し、秋葉原を彷徨ったあとにつくばエクスプレスでつくばに初上陸。英語は余裕だったが数学の試験は読みが外れて対策が不十分だった苦手分野に当たり、試験終了後は「落ちたな」と感じた。結果がどうであれ、一先ず終わったという事実にホッとしていた。
その日のうちに大阪に帰り、2月27日には寮を引き払い、大量の段ボール箱とともに実家に帰った。
後期は合格可能性が高いと踏んだ広島大学の総合科学部に一応出願していたが、東広島は田舎すぎてアクセスが悪いという理由から同志社大学にしようと思い、結局受験しないことにした。前期試験が終わって気が抜けて、対策がダルく感じたというのも大きい。(学費をかけたくないという思いはいずこへ…)
しかし、筑波大学の採点はかなり甘かったようで、数学は200分の150点くらいは取れており、余裕で合格していた。
合格発表の日は神奈川に住む親戚の結婚式前日であり、東京・下北沢で家族とショッピングをしていた。昼にネット上に掲載された情報から合格を知り、改めてホッとした。これでようやく大学受験から脱することができたんだと思うとただ嬉しかった。
結婚式後、茨城県唯一の知り合いのツテでアパートを探して契約し、家具も予約して、実家に帰った。
こうして、私のポンコツ浪人生活は終わりを迎えた。
振り返り
浪人時代の大半において、時間を有意義に使うことができなかった。
何度も同じ失敗をした。自分の甘さが嫌というほど露呈した。終盤を除き勉強に熱を入れることができなかった。燃焼したとは到底言い難いものであった。
折角ならもっと読書して見識を広めたり、なんなら思い切って全国を放浪したり、色んなバイトをしてみたり、なんらかの活動をしたりと、できることはたくさんあったはずなのに、中途半端に過ごしてしまった。その点は後悔が残った。物心ついて以来、最も勿体ない1年間だったと思う。それが後にバネとなった部分もあるが。
浪人中/予定の皆様におかれましては、同じ轍を踏むことのないよう、熟慮と情報収集(色んな大人との会話を含む)の上に、明確な目標を掲げ、リソースの配分を間違えず、その若い貴重な期間を、後に振り返ったときに肯定的に解釈できるように、納得感を以て過ごされんことを。
2019.01.21
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