意味を求める病

価値観

いつかの自分に向けた文章。

出来事の意味

多くの出来事に意味を求めすぎていた。
身に起こる全ての出来事に意味があると思いたかった。

人生が無駄に費やされたと思いたくなかった。
人生をドラマ仕立てにしたいと思いすぎていた。

「一見無駄にも思えるこの出来事(失敗や出逢いなど)を、結果として起きて意味があったと評価できるように計らおう」

そう思って行動することも多かった。

良い(と感じられる)結果に、それが繋がることもあった。
そうすると、その無駄に見えた出来事に意味を与えられた気がして、嬉しかった。
そしてますます、様々な出来事に意味を見出そうとするようになった。

しかし、良い結果を得る方法は他にもいくらでもあっただろう。
特定の出来事に意味を見出そうとこだわるあまり、大局から目を背けてしまうことも多かった。

運命への逃避

運命だから、これでいい。
運命だから、これも何かしら意味がある。
本当にそうだろうか。

仮に宇宙という大きな流れに定められた運命があったとしても、我々人間は皆、その極小の構成要素にすぎず、素晴らしいと主観的に思える人生を歩める保証などない。

生まれてくる前に死んだ胎児にとって、その人生にはどんな主観的意味があっただろうか。
生まれてすぐに餌食にされたサバンナの子象は、その一生にどんな意義深い運命を感じられただろうか。

「自分だけは違う」そう思うこともできるかもしれない。
「自分の人生は何か素晴らしいものになる」自分が主観的に感じられる意識は自分だけだから、そう思うのも無理はない。

ただ、それらはいずれも、ただ自分がそう思いたいだけに過ぎないだけであり、明確な根拠などない。
そうやって自分の選択を強引に肯定して、思考停止しているだけだ。「運命」に逃げているだけだ。

何事においても言えるが、人はそう思いたいからそう思おうとするし、それを支えるようなそれらしき理由を用意しようとする。都合のいい、か弱い生き物だ。

奇跡とは確率

奇跡は起きている。だから運命は存在する。という人もいる。

確かにこの世界では、ドラマのような出来事は毎日どこかでたくさん起きている。
しかしそれは確率の問題以外の何物でもないかもしれない。

例えば全人類80億人がトーナメント方式のじゃんけん大会に参加すれば、32回または33回連続で勝利したたった1人が優勝する。奇跡的にも見える存在だが、必ず現れる。(※2の33乗=約85億)

なんだか導かれるような気がするから、これは運命だという人もいる。
普段の生活の中で、視界の中の赤いモノを意識するまで、赤いモノがあることに気付けない。

今月に入って5回も黒猫を見た?5回連続じゃんけんで勝ったのがたまたま自分だったのと同じようなことだ。
意識すれば気が付きやすくなるだけであり、それを運命と形容するのは主観的すぎる。

意識された特定のある物事や出来事は常に、もたらされる何らかの結果の無数にある要因の一部となる。

しかし当然ながら、意識されない他のあらゆる物事や出来事においても同様であり、特定の物事や出来事を特別視する必然性はない。あくまで主観的なこだわりに過ぎない。

何千万年か前にタイムスリップしてネズミ1匹踏み殺せば
ごくごく僅かな差異の気の遠くなるような集積に関する雑記。

伏線の大半は芽を出さない

映画やドラマにおいて、無駄な伏線はない。
その限られた尺の中で、ほぼ全てに何らかの意味を見出すことができるし、何らかの意味ありげな結末に繋がる。

しかし、人生はそれとは全く別物だ。

旅先で知り合った誰かは、出逢うべくして出逢ったのか?
90%以上は数年経てば思い出すこともないだろう。

気になる映画リストは、死ぬまでに全て消化しきれるか?
常に増えていくし、興味も移り変わるのだから、無理だろう。
消化されずにメモ帳に残されたその文字列に直接的な意味を見出すのは難しい。

点と点は繋がることもあるし、その場合目立つので印象に残りやすい。
しかし実際のところ、そのほとんどは繋がらない。全てがハイライトになるなんてことはない。

点と点に繋がりを与えられたとしても、その道が他に存在した無数の他の道と比べて価値を感じられるのかは別の話だ。

意味を追求しすぎず今を生きる

「せっかく知り合ったのだから」
「せっかく誘ってくれたのだから」
「せっかく勉強したのだから」
「せっかく練習したのだから」
「せっかく大学を卒業したのだから」

「せっかくだから」「せっかく○○したのだし」と意味を紡ごうとする前に、もっと自分が心からやりたいと思えること、向き合いたいと思えることはないか?

友だちに遊びに誘われたらできれば毎回行きたい?
行ってよかったと思うかもしれないし、思わないかもしれない。
何かしら学びが得られるかもしれない。
しかし、それ以外にも選択はいくらでもあるということを忘れてはいけない。

せっかく食べ放題に来たんだからなるべくいっぱい食べよう?
そのコストに意味を見出そうと欲張っても、ただお腹が苦しくなるだけだ。

何かに意味があるかどうかなんて、後になってみなければ分からない。
死の間際でさえ、分からないことの方が大半だろう。

だから、運命など信じない方がいい。
それは思考や能動性を放棄する行為だ。

基点は「今」であり、自分がどうしたいかが何より重要だ。
多くに意味を見出そうとするのではなく、対象を選択する。

関わったとて執着しなくていい。多くに意識を向けるには、人生はあまりに短すぎる。
もっとフラットに、チャンスを掴みにいけばいい。

やりたいからやる。好きだからやる。それでいい。
常に頭を働かせ続け、行動しつづけよう。今を見よう。今を生きよう。

2023/3/6

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