【短編】夏の魔物

創作

20XX年夏、40度の熱気の中、飛ぶ鳥を落とす勢いで地方大会を勝ち進んだ彼らは、聖地・甲子園に意気揚々と立っていた。

これまで長い道のりだった。

あと一歩で届かずにいた甲子園。
厳しい練習を乗り越えて、ついにここまでやってきた。

初戦の相手は、優勝候補とは程遠い地方の県立校。
彼らも地方の県立校だが、地方大会では合計数失点という固い守備でしのいできた。

エースはこの夏一番のコンディション。
まずは初出場・初勝利を飾って、波に乗っていく。

・・・はずだった。

午後1時、この日の第三試合の開始を告げるサイレンが鳴り響く。

一回表は、彼らの攻撃から始まった。
高い出塁率でチームを勢いづけてきた先頭打者がバッターボックスに入る。

相手エースの球速は140km前後をうろついている。
決して打てない速度ではないはずだったが、繰り出される絶妙な変化球に一度もかすることなく三振に倒れた。

ベンチに戻る彼の表情は思い詰めたように険しかった。
続いて二番、三番と、同じくかすりもしないまま、三球でアウトとなった。

その裏、今度は彼らが守備につく。
マウンドに立ったエースの自信に溢れた表情をカメラが捉える。

しかし、地方大会で防御率1.00を下回る背番号1の繰り出す会心の投球は、いとも簡単に、そして次々と、外野に飲み込まれていく。

どれほどの時間が経っただろう。

気が付けば、その回が終わる頃には、50点を献上していた。

球場も実況もどよめいている。

ベンチに戻ってきた彼らのほとんどが、肩を振るわせて涙を堪えている。

相手チームは攻撃の手を緩めようとしない。
二回、三回、四回と、同様の展開が続く。

同校監督の「全力勝負」という信念を体現しているのか、まるで何かに取り憑かれたかのごとく、ドーパミンの快楽に深く溺れた彼らは、薄笑いを浮かべながらバットを強振していく。

動揺がミスを呼び、ミスがさらなる動揺を呼んでいく。

そして攻撃回は決まって三球三振、かすりもせずに一瞬で討ち取られていく。生気を失った彼らはもはや完全にタイミングを逃していた。

五回を終えた頃には、試合開始から既に7時間以上が経過していた。

 

「334-0」

無慈悲なスコアがボードに無理矢理並ぶ。

この間、甲子園には様々な記録が生まれていた。

1イニング最多ヒット、一試合最多ヒット、1イニング最多ホームラン、一試合最多ホームラン、最大得点差試合、初回先頭打者から15人連続三振・・・春夏通算の打撃記録のほぼ全てが塗り替えられた。

彼らは決して最初から力を出し切れていなかったわけではなかった。
しかし、どういうわけか、このような試合展開になってしまったのである。

実況もついには言葉を失っていた。いつしか各局の中継も中止された。

二回途中くらいまでかろうじて彼らを応援していたアルプススタンドは、次々と人が去り、今や閑古鳥が鳴いている。

相手チームのアルプスはというと、応援の必要なしと判断したのだろう、吹奏楽部の演奏は同じく一回途中から止んだままだ。既に多くの生徒が球場を去った。

投手陣は、ストライクゾーンにボールを入れることすら困難な状態であり、既にほとんど戦意を喪失していた。替えの投手は一回ウラの時点で使い果たし、三番手の投手が一人で400球以上投げていた。もはや感情はなく、誰もが死んだ目をしている。

メンタル面のダメージに加えて長時間炎天下にさらされたこともあり、意識が朦朧として運ばれていく者も後を絶たなかった。

試合は六回ウラの途中、350点目が入ったところで中断となった。既に午後9時が迫っていた。

長時間の試合による選手へのダメージを軽減するためだとか、大会日程を考慮してだとかという、当たり障りのないアナウンスが流れる。

この異例の中断劇に、相手チームの選手には「もっとやらせてくれ」と言わんばかりに抗議する者もいた。彼らは、麻薬中毒者のような表情で校歌を斉唱した。

 

「県の代表として恥ずかしい」「幼稚園児とメジャーリーガーの試合」「出場しない方がマシ」「末代までの恥」「もはや野球ではない」「バッティングセンター甲子園店」

試合後に彼らを待ち受けていたのは、容赦のないバッシングであった。

彼らにも甲子園に出るだけの実力はあった。

誰にも予想できなかったこの試合展開。
しかし、ただ相性が悪かった、では説明できない。

もちろん彼らに対する同情の声も挙がった。
しかし、このネット社会において、目立つのはやはり批判の声ばかり。
それらは選手や関係者を大いに追い詰めた。

登板した三投手を始め、選手の多くは、この試合がトラウマとなり、情緒不安定になる者、不眠症になる者、中退して家に引き籠もる者、ボールを見ただけで激しく嘔吐する者、野球と聞いただけで失禁する者などが続出、ほぼ全員が深刻なイップスと診断された。

ほぼ内定していた主力選手らの大学スポーツ推薦は非情にも取り消される。
試合以来無期限の活動休止中であった野球部は秋に廃部となった。

監督はこの世紀の圧倒的敗北の責任を取って辞任。
学校には苦情の電話が殺到し、入学希望者は激減。
「初回で中断すべきだった」と、高野連も批判を浴びた。

相手チームはというと、毎回50点以上の得点を続けた無慈悲な攻撃を「死体蹴り」などと叩かれて萎縮してしまったのか、ドーパミンの過剰分泌で不調をきたしたのか、二回戦であっさりと敗退した。

彼らを完膚無きまでに叩き潰したチームが次の試合であっけなく散る――これは彼らにとって痛い追い打ちとなった。

この「空前絶後の伝説的リンチ試合」は、野球界における大事件として世界に衝撃を与え、大きな議論を呼び、その後も長く語り継がれ、同時に、多くの人生を狂わせつづけた。

あの夏以来発狂して精神病棟で過ごしていた元エースが、試合から10年ほど経った頃に相手チームの元エースに脅迫の手紙とナイフを送りつけるという事件や、監督が野球少年たちにリンチされ重傷を負う事件などが発生し、物議を醸したこともあった。

そして、あの試合から30年。

当時三番サードを務めた男は雑誌の取材に対してこう振り返った。

「今でも、甲子園のシーズンになると動悸が止まらなくなるんです。毎晩のようにあの試合が夢に現れて、僕の心をズタズタにしていくんです。甲子園に行かなければよかった、野球を始めなければよかった、と思わない日はありません。甲子園に、確かに魔物はいました。球児たちの活躍は美化される傾向にありますが、そのウラで人生を破壊される人もいるということを、多くの人に知ってほしいです。だから今僕は、生き残った同志たちとともに、甲子園廃止運動、高校野球廃止運動、さらには野球撲滅運動を推進しています。あの悲劇を二度と繰り返してはいけない。毎日様々な球場でデモ活動をしています。まだまだ勢力は大したことありませんが、いつか必ず、実現してみせますよ。まあ見ていてください」

それから数ヶ月後、うだるような40度の夏空の下、彼は甲子園の開幕式で爆破テロを仕掛けようと仲間とともに甲子園に向かうも、到着時にかつて負ったトラウマから発作を起こし、救命活動虚しく息を引き取った。48歳であった。

彼の母は語る。

「息子は、甲子園に魔物にされてしまいました」

2019.08.17

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