100年近い歴史がある日本のプロ野球史上、事件を起こして逮捕された者は数多いといえど、その中でも最も罪深いと考えられているのは、恐らく小川博(オガワ ヒロシ)だろう。
ドラフト2位で入団したロッテでは実働6年間で132試合に登板し21勝26敗5セーブ・防御率4.12という成績を残した。その記録を見る限りでは突出しているものはないが、最多奪三振を記録したりオールスターに出場したりと、エース級の輝きを放った年もあった。
それから時は流れ、離婚・破産・借金…そして凶行へー。
かつてマウンド上でまばゆいスポットライトを浴びた男が転げ落ちた人生の階段。
それはあまりに落差の大きいものであった。
プロ入り前
1962年4月2日、栃木県足利市に生まれる。1歳時に子供に恵まれなかった群馬県在住の大工・清掃作業員夫婦の養子となり、以後養父母の元で愛情をかけられて育つ。
1978年に県立前橋工業高校に入学。1年秋からエースとなり、当時甲子園への出場経験が春夏通算4度であった同校を3度の甲子園に導く。
1979年春の選抜では1回戦で継投完封勝ち、2回戦敗退。同夏の選手権では3回戦進出。
1980年夏の選手権では初戦で徳島・鳴門高校と対戦。先発した小川(打順は3番)は5回に連打を浴びて3失点して降板。
野手として0-3で迎えた9回表にタイムリーヒットを放ち、4番5番の連続安打で同点に追い付き延長に持ち越すも、延長12回ウラに3塁手のエラーでサヨナラ負けを喫し、初戦敗退した。
なお、その鳴門高校を次戦にて1-0で破った(後にプロでチームメイトとなる)愛甲猛擁する横浜高校はこの年優勝している。
甲子園での6戦のうち2年夏初戦を除く5戦で先発を務めた右サイドスロー投手の小川は、甘いマスクと豪腕が人気を集め、「群玉(群馬の玉三郎)」として一躍甲子園のアイドルとなった。
「玉三郎」とは本来、歌舞伎界の重鎮・五代目坂東玉三郎を指す。昭和を代表する女形であったことから、美男子のことを「◯◯の玉三郎」と形容することがあった。(現代では死語)
高校卒業後は青山学院大学法学部に進学し、硬式野球部に入部する。
小川はのちに受験当時の思い出を次のように振り返っている。
「試験の前は受験生が合宿所に一ヶ月間泊まり込みでした。野球の練習もしましたけど、勉強が主でしたね。明け方の3時か4時頃まで受験勉強をやりました。そうしなければ、合格できっこなかったですから・・・」
週間ベースボール86大学野球春季リーグ戦展望号
青山学院大学が所属する東都大学野球リーグで小川は活躍。4年春、2部リーグで停滞していた同部を1部リーグ復帰へ導き、同年秋には同部として歴代最高順位である1部リーグ2位への躍進に貢献した。以降、同部は1部リーグに定着するようになる。
1984年のドラフト会議でロッテオリオンズと阪急ブレーブスから2位指名を受け、抽選の結果ロッテが交渉権を獲得。大学総長とともに入団交渉に臨み、「自分の力を試したい」と両親の反対を押し切って入団した。契約金は約4,200万円であったという。
なお、今でこそ多数のプロ野球選手を輩出する青学硬式野球部だが、当時の同部出身プロ野球選手は累計4人(戦後かつ卒業は2人)と少なかった。小川の活躍は同部躍進の契機とも評価されている。
大学卒業、プロ入り
背番号26を背負ってプロ野球入りした1985年は開幕第3戦に先発として起用されるなど、新人ながら先発2試合を含め一軍21試合に登板し2勝を挙げている。(3敗4セーブ・防御率4.67)
三振にこだわる速球派であり、右サイドスローから放たれる最速150km/hの速球とシンカーを武器としていたが、入団時の監督(1984-86年在任)稲尾和久氏は「三振がすべてではない。そう考えればもっと成長する」と小川に忠告したことをのちに振り返っている。
オフには3歳年上の婚約者に正式にプロポーズし、翌年4月、開幕に合わせて入籍した。入籍前に息子をお腹に授かっている。
1985年オフに収録されたプロ野球オールスター大運動会では短距離走で小川が1位になったという。
2年目は6登板計6回1/3しか投げることができず0勝に終わるも、3年目には8月から先発ローテーションに加わり、40試合に登板して3勝5敗、防御率3.28の成績を残した。
キャリアハイ
1988年、オールスター選出
4年目の1988年、小川は先発陣の一角としてシーズンに臨んだ。
前半戦では日本ハム相手に5被安打14奪三振でプロ初完封勝利を挙げるなど、7勝4敗0S・防御率3.22とチームに貢献。
7月12日夕刊では「(ロッテの)エース荘勝雄に次ぐ7勝を挙げている若手投手陣随一の成長株」として取り上げられている。
7月24日から3日間開催されたオールスターゲームにも出場し、第1戦で全パ2番手の投手として5者連続奪三振を記録。第3戦にも登板している。なお、第2戦と第3戦で全セの勝利投手となった中山裕章は、のちに幼女に対する連続強制わいせつ事件を起こし逮捕されている。(その後球界に復帰している)
伝説の「10.19」
この年、パ・リーグでは2年連続日本一・3年連続リーグ優勝の西武ライオンズが、首位を独走していた。
しかし8月後半から、突如8ゲーム差を一挙に縮めて西武を猛追したのが、前年リーグ最下位であった近鉄バファローズである。
悪天候などにより近鉄対ロッテの順延が続いた一方、10月22日に日本シリーズの開幕が決まっていたため、近鉄は10月7日から19日にかけての13日間で15連戦、一方の西武も7日から16日まで10連戦という過密日程で優勝を争うことになった。
17日に阪急に敗れた近鉄は、残る対ロッテ戦3試合に全勝すれば、16日に全日程を終了した西武の勝率をギリギリ追い抜いて8年ぶりの優勝を飾ることができるという局面にあった。翌18日、近鉄は川崎球場で行われた対ロッテ戦に12対2で勝利する。
そして迎えた10月19日、それが今なお語り継がれる伝説の最終戦ダブルヘッダー「10.19」である。
前日まで対近鉄戦8連敗を喫しており、首位西武との差は21で既に最下位が確定していたロッテだが、ホームグラウンドで近鉄の優勝の胴上げを見せつけられるわけにはいかない。
この時点で29試合を投げて9勝9敗、自身初の2桁勝利が懸かっていた小川は、シーズンを通して近鉄相手に4勝2敗1分・防御率2.10という好成績を挙げていた「近鉄キラー」であったため、この大舞台の第1試合の先発に起用される。
近鉄に立ちはだかる小川
近鉄には、とうとう泣いても笑ってもの「あと2試合」になった。十九日はダブルヘッダー。サドンデスだから、もちろんどちらもおとせないが、近鉄にとっては第1試合が難関だろう。 第1試合、ロッテの先発として予想される小川は今季、近鉄に4勝2敗1分けと強いからだ。勝ち星だけではなく、内容もいい。
51回1/3、被安打32(本塁打2)、奪三振50、自責点13で防御率2.10。近鉄側からいうと、1試合に5安打して2点を取るのが精一杯の手ごわい投手である。
十二日の22回戦で近鉄はその小川に黒星をつけているが、この試合は阿波野が2-0とロッテを完封したから、勝てた。小川と投げ合う小野が阿波野同様の投球ができるかどうか。
小川を抜けば、近鉄の優勝は濃厚となろう。第2試合の先発は近鉄は好調の高柳。ロッテは園川と思われるが、近鉄は園川に5勝2敗と強い。勢いに乗って一気にゴールインといきそうだ。待つ身の西武としては、神さま、仏さま、小川さまの心境だろう。
朝日新聞 外野席 (1988/10/19)
当時のパ・リーグはあまり注目されておらず、加えてロッテは1978年に川崎球場を本拠地として以来、慢性的に観客動員数が伸び悩んでいた。この1988年も前年よりは増えたものの12球団の中で最下位であった。
試合当日、トレーナー室でマッサージを受け、ベンチ横のブルペンに試合開始の直前に入った小川は、いつもは閑古鳥の鳴いているスタンドが埋まっている様子を見て驚いた。
引退後、小川はそのときの心境をこう振り返る。「マウンドに立って近鉄ベンチを見ると皆、目付きがいつもと違うんですよ。異様に鋭くて、近鉄ファンには悪いけれど、優勝消してオレの名前を売るぞ、全部三振取るぞ、こんなチャンスはない、と思いました。親父と女房をスタンドに招待していましたし」
この日は3万人以上の超満員となり、球場の外まで人で溢れ返った。その8割は近鉄の逆転優勝を望む近鉄ファンであったという。
午後3時、第1試合の火蓋が切られる。
1回表、一番打者への初球でインコースにストレートを投げ込み、負けん気の強さを見せる。4回まで三振5個でランナーを一人も出さない好ピッチング。「小川、打たせろー」「バカヤロー」といったヤジ、罵声が飛び交う。
「近鉄のファンばかりだけど大観衆の中で投げるのは本当に楽しかった。ヤジも心地よかったねぇ。お客さんに乗せられて、思うところにボールがズバッ、ズバッと入りましたよ」
ベンチに戻るたびに有藤監督が「いいぞ、点をやるな」と声を掛ける。小川にとって有藤監督はもっとも尊敬すべき人であり、いつも背筋を伸ばして話を聴く怖い存在だった。
近鉄と比較的相性が良かったのは、ブライアントなど振り回してくるバッターが多く、そこを上手くつけたからだと本人はのちに語っている。
小川はこの試合で5回二死まで無走者・無得点の好投を披露。
この回で本塁打を打たれるも、以後は8回表一死まで再び無走者・無得点を続けた。
3-1とリードして迎えた8回表の近鉄の攻撃、一死走者2人の状況で、小川が苦手としていた村上が代打に送られる。甘く入った球がレフトフェンス直撃のツーベースとなり、同点に追いつかれる。
3-3で迎えた9回表、一死後に二塁打での出塁を許した小川は降板する。8回1/3を投げて4被安打3四死球9奪三振3失点という内容であった。
当時のパ・リーグでは「ダブルヘッダー第1試合は延長戦なし、9回で試合打ち切り」という規定があったため、近鉄はこの回に勝ち越さなければ西武の優勝が決まる状況であった。
引き分けても優勝への道が閉ざされる近鉄は粘り強く、前年26セーブを挙げて最優秀救援投手となった守護神・牛島和彦が継投して一死を取ったのちに打たれ、試合は3-4で敗れるも、優勝がかかる近鉄に一時的に冷や汗をかかせる結果となった。(ロッテは対近鉄戦で9連敗となった)
優勝の行方が持ち越されたダブルヘッダー第2試合は、午後6時44分に火蓋が切られる。
第1試合を終えた小川は、先発ローテーション投手の通例として第2試合ではベンチ入りせずに大田区蒲田付近の自宅に戻り、近所にある馴染みの寿司屋に家族と向かった。
暖簾をくぐるや、店主は驚き「何やってるの!球場にいなくていいの!?」と悲鳴をあげた。「だって第1試合で投げて…」と伝えた小川だが、店主がどうしてそこまで驚くのかが分からなかった。しかし、それもすぐに理解することになる。店のテレビに、テレビ朝日「ニュースステーション」の枠で、中継が行われていたからだ。
このダブルヘッダーは第1試合から朝日放送が系列局の一部に向けて中継していたが、試合の経過を知った視聴者から中継の延長を求める電話がテレビ朝日局内の視聴者センターに殺到、テレビ朝日側の決断により、第2試合途中から急遽全国放送に切り替わっていた。
当時、ナイター中継といっても、巨人戦でも30分の延長枠があるくらいだった。それが、普段は中継もされないロッテの試合にも関わらず全国放送で、しかも放送枠を無視して延々と試合が中継されている。いくら優勝チームが決まる大一番とはいえ、その異例さに、小川は驚いたという。
スタンドの凄まじい歓声がテレビを通して伝わる。「オレ、すごい試合で投げていたんだな」小川はテレビを観ながらまず、こう感じた。
試合はロッテが先制したが、7回に近鉄が逆転する。
「目の前で胴上げなんかされてたまるか、ってさっきまで必死だったけれど、このときは不謹慎にも『近鉄頑張れ』って思っていた。ベンチにいたら絶対そんなことは考えない。私服に着替えていたせいでしょうね。『もう、近鉄でいいじゃん』とまで思っちゃって…。ロッテの選手じゃなくて一野球ファンになっていた。感動したんですよ、近鉄にね」
帰宅後も中継に見入っていた小川は8回裏、チームメイトの高沢秀昭(この年に最多安打と首位打者とゴールデングラブ賞とベストナイン)の本塁打が飛び出し、ロッテが同点に追いつく。「高さん(高沢)、よう打てるなぁ、と思ったものの、でも、ヒットでもよかったんじゃないの…と責めたくもなった」とこのとき小川は思ったという。近鉄ファン以外の人たちの多くも、近鉄を応援していた。
9回に入り、なお4-4の引き分け。近鉄は焦っていた。近鉄がリーグ優勝を果たすには、目の前のロッテに1点でも勝ち越していなければならない。
当時のパ・リーグには、(9回で打ち切りとなるダブルヘッダー第1試合を除き)9回終了時点で同点の場合、最大12回までの延長戦を行うとしていた。しかし、「試合開始から4時間を経過した場合は、そのイニング終了をもって打ち切り(ただし、8回完了前に4時間を経過した場合は、9回終了まで続行)」という規定もなされていた。
そんな中、9回裏のロッテの攻撃で、近鉄選手の二塁ベース上で両チームの選手が交錯。走者アウトの判定に対してロッテの有藤道世監督は「近鉄の守備がロッテ走者を故意に押した」として走塁妨害を主張、猛抗議を開始する。
小川は、現場にいれば当然自分も抗議するだろうとは言いつつも、「監督、もういいじゃないですか。そりゃないでしょう」と思ったとのちに述懐している。
有藤監督が審判団への抗議を始めた時点で、試合時間は3時間30分を過ぎていた。近鉄ベンチから仰木監督が飛び出して有藤監督に迫り、客席からも罵声や怒号が飛び交うなど騒然とする中、抗議は9分間に及んだ。この抗議は「国民を敵に回した」とまで形容された。判定は覆らず、ロッテ走者はアウトとなった。
延長10回表、時刻は午後10時30分。試合開始から間もなく規定の4時間が経過する。近鉄最後の攻撃はダブルプレーで追加点のないまま終わる。その瞬間、近鉄の勝ちは消え、西武の優勝が決まった。
10回裏、ロッテの攻撃。小川は「ここで打ち切りでもいいじゃないか…」と、半ば呆然として守備につく近鉄ナインを画面越しに見つめていた。そして午後10時56分、試合時間は4時間を過ぎていたため、規定により、時間切れで4-4の引き分けに終わった。西武と近鉄の勝率差は、僅か.0014だった。
試合終了後、近鉄優勝を阻止する結果を作ったロッテの選手たちは身の安全が確保されていなかったため、川崎球場から一時出られなかったと言われている。ロッテは「球史に残るヒール」と言われた。
その後西武は日本シリーズで4勝1敗で中日を破り、3年連続の優勝を飾った。なお、近鉄は翌年にリーグ優勝を果たす。
22年後の2010年にNPBが行った「最高の試合」「名勝負・名場面」調査では、監督/コーチの投票で「最高の試合」の第2位にこの試合が選ばれている。
小川は現役引退後にこう振り返っている。
「翌朝スポーツ新聞を見ても、自分が本当に投げていたのか半信半疑だった。自分が自分でないような。現役生活で一番のピッチングは『10.19』ですね。お客さんにうまく乗せてもらえて、4回まできっちりと抑えたけれど、打たれちゃいけない人に打たれて交代、というのが自分らしくて」
2桁勝利、最多奪三振
小川は「10.19」の数日後、阪急ブレーブスとのダブルヘッダー第1試合で完投し、10勝目を挙げた。この日も超満員だった。
小川はこのシーズンに203回2/3イニングを投げ、10勝9敗・防御率3.40の成績を残した。
小川の投球回数はチームトップであり、50回以上投げた投手の中では防御率もチームトップであった。(リーグ全体で11位)
またこのシーズン、小川は投球回数を上回る204奪三振(両リーグ最多)を記録し、のちに元祖ドクターKとも呼ばれた。
ロッテはリーグ順位もチーム防御率も最下位だったが、小川の活躍もあって奪三振数はリーグ1位となっている。(チーム奪三振数833に対して小川は204)
規定投球回数以上の投手で奪三振が投球回数を上回ったのはパ・リーグ史上初(セ・リーグでは西村一孔と金田正一と江夏豊が一度ずつ記録していた)であった。この活躍は翌年の最多奪三振のタイトル創設のきっかけとなった。
小川のシーズン被打率は0.198と低かったが、当時のロッテは毎年最下位争いを演じる弱小チームであり、打線の援護に恵まれずに惜敗した試合も多かった。西武などに所属していれば+5勝はできたはずとの声もある。
なお、奪三振率9以上で被打率0.200以下を記録した投手は江夏豊や野茂英雄など数少ない。
11月に開催された日米野球でもリリーフとして2試合に登板し、計4回を投げ4被安打2四死球2奪三振1失点という結果を残している。
こうした主力級の活躍により、同年オフの契約更改では年棒が2,200万円(諸説あり)に倍増し、高級外車ポルシェ911カレラを購入し、夜は銀座や六本木の高級クラブなどで豪遊した。
翌年も主力としてさらなる飛躍が期待されていた。
しかし結果として、背番号と同じ26歳のこの年が、選手としてのピークであった。
急降下へ
元号が昭和から平成へと変わった翌1989年も開幕からローテーションの一角を担い、5月上旬時点で3勝3敗0S・防御率4.11とまずまずであったが、奪三振に拘る中で既に酷使状態であった右肩を5月下旬に本格的に痛めて支配下選手登録を抹消される。
この頃、チームメイトに誘われて行った気晴らしのギャンブルに小川はハマった。それがのちの転落の契機となる。
8月に復帰して閉幕まで先発7試合を務めるも0勝5敗で防御率7.26と絶不調に陥った。同年オフには推定年俸2,000万円(前年比200万円減)で契約更改した。
翌1990年4月28日の西武ライオンズとの2戦目で先発を務め、度々ピンチを招いて金田正一監督から交代を求められても拒否して6回2/3を投げ、約1年ぶりに勝利投手となった。試合後のヒーローインタビューでは「本当に長かった。もう勝てないと思った」と語り、人目をはばからず泣きじゃくった。
この2年間の成績は6勝9敗1Sに終わり、1991年には再び右肩を痛めて一軍でも二軍でも実戦登板が叶わず、同年オフには年俸1,580万円(前年比360万円減)で契約更改した。
1989年から3年間ロッテのコーチを務めた植村義信氏は小川について「4番打者にも8番打者にも全力投球し、派手に三振を取る。しかし、抜き球や遊び球がない。いったん崩れると粘りがなかった」とのちに振り返っている。
1992年にも一軍登板を果たすことはなく、1992年11月27日付で日本野球機構(NPB)から任意引退選手公示され、現役を退いた。同年の推定年俸は700万円までに減っていた。なおこの年、球団名が「千葉ロッテマリーンズ」に変更された。
一軍通算成績は、132試合21勝26敗5S、防御率4.12であった。
選手現役引退後
引退後も球団に残った小川は1999年までトレーニングコーチを務める。95年と98年には一軍も担当し、若手選手の兄貴分として慕われていたという。
ロッテに所属していたある元投手は「三振の取れるピッチャーだったが、コーチになってからは、取り立てて理論派だったとか、そういった記憶はない」とのちに話している。
2000年からは編成担当の球団職員を務め、トレード候補の選手の調査のため各球場を精力的に回った。あるスポーツ紙記者によると「ずっと野球界で仕事をしたい」と話し、心から仕事を楽しんでいたという。
現役を引退したあとに球団に残ることができるのは一部の選手だけである。愛車は現役時代のポルシェから国産の四駆車に代わったが、引退後に球界を去った多くの仲間に比べると恵まれた環境であった。
しかし、小川は2002年11月に解雇される。このとき40歳であった。
「『功労者』と評価されていた選手が職員に転身することになり、ポストを空けるため」あるいは「球団の主導権を巡る内部抗争で敗れた一派の排除」というのが表向きの理由であった。
関係者によると、このとき台湾プロ野球でコーチ就任の話があったが「700万円の年俸では苦しいと、断った」とされている。
1994年頃、小川自身の浮気や金遣いの荒さなどにより離婚するも、その2ヶ月後には、クラブで知り合った女性と再婚。2人の子供をもうけている。
球界の人間としての小川博はここまでだった。いや、このときには既に、彼の転落は始まっていた。
球場から窮状へ
現役時代から派手好きであったという小川はカネ遣いが荒く、現役時代に味わった豪勢な生活が忘れられずにいた。浪費癖に加え、パチンコなどの遊興費やアダルトサイト使用料や1,000万近い住宅ローン、高額の賭けをしては選手や球団関係者からも借金を重ね、経済的に追い詰められていた。小川の浮気やカネ遣いが原因で離婚した前妻への慰謝料や養育費も重くのしかかった。
ロッテ球団職員の1人は2002年暮れのゴルフコンペで、現役選手2-3人から「小川にカネを貸している」と打ち明けられ、小川の借金まみれの生活を初めて知ったという。
両親から受けた援助は云千万に達し、入団時に両親に預けた契約金(両親は手を付けずに取っていたという)、そして父が大工、母が清掃作業で蓄えた貯金も潰えた。それでも足りず、メディアの関係者やファンからも借金し、球場警備員を保証人にしたこともあった。
球団にも借金の取り立てがきたとの話もあり、解雇された頃には消費者金融などからの借金が1,700万円ほどに達していた。球団からの解雇は実は金銭関係が原因であると言われている。
会社員への転身
家計は追いつめられており、球界を離れた翌月である2002年12月からは、宅配物を仕分ける時給1,000円弱の深夜アルバイトも始めた。
2003年1月には新聞の求人広告をきっかけに埼玉県上尾市の産業廃棄物処理会社に応募、「華やかなプロ野球出身者には無理」と言われたが、頭を下げて採用され、営業部長を務めた。
埼玉県内の建設会社の部長は、取引先である同産業廃棄物処理会社の会長が、小川を挨拶に連れてきたときのことをハッキリ覚えていた。ガッシリとした体格をスーツに包み、真面目そうに見えたと後に振り返る。「営業は全部、彼に任せます」。会長の言葉に信頼が厚いことが感じられたという。
しかし借金返済の目処が立たず、同年4月には1,750万円の借金を抱えて自己破産手続きを行い、身辺を整理、再起を誓う。自己破産により、お金を貸してくれていた知人友人への返済義務も免れた。「もう督促に追われなくて済む」と関係者に漏らしていたという。
その半年後の10月には再婚した妻と2人の子供とともにさいたま市緑区道祖土四丁目の高級賃貸(または分譲)マンションに引っ越した。
それからは、この頃まで借金のことを知らなかった妻が家計を管理するようになり、小川の金遣いは鳴りを潜めた。しかし、そんな中でストレスを増幅させていったと思われる。
しばらくは落ち着いていた小川であったが、、やはり浪費癖は治らなかった。
会社では月に40万円の給料を得ていたというが、あるとき焼き肉パーティ代として預かった会社経費10万円のうち3万円をギャンブルに使い込んでしまったことが、再び闇金に手を出すきっかけとなる。(自己破産していたので一般的な消費者金融からは借り入れできなかった)
母親に内緒で実家を担保に借金したり、また自身の高級国産乗用車を担保に数万円を借りるなどしているうちに、高い利息もあって借金はみるみる膨らんでいった。借金を一気に返そうとしてパチンコに注ぎ込んでは負け、さらに追い詰められることもあった。会社からはよく給料を前借りしていたという。
強盗殺人事件
それから約1年後の2004年11月18日(木)の夕刻、小川は焦っていた。
利息を含め膨れ上がった闇金業者からの借金はこのとき80万円ほどになっていた。
闇金業者への利息など3万円を返済するために別の闇金業者から10万円を借り、それを元手にパチンコで増やそうとするも、上手くいかずほとんど使い果たしてしまう。
その3万円の返済期限(その業者の営業終了時間)は午後7時に迫っていた。
カネを借りようと知人を訪れたが不在であったことから、ますます切羽詰まっていく。
この日の18時頃、仕事を終えて会社事務所に戻った小川は、他の同僚などからも既に借金を重ね、もう借りるアテがほとんどなかった。アテにしようとしていた社長は不在だった。返済期限まで30分に迫った午後6時半頃、最期の頼みの綱として、埼玉県上尾市小敷谷の会社会長(50)宅を訪ねる。
応対したのは会長ではなく、会長宅で住み込みで家政婦として働く同社従業員・西内和子さん(67)であった。会長にカネを借りるつもりだったものの、会長一家は外出中であることを知る。
小川は少しだけ顔見知りである西内さんに土下座して「今日中にどうしても金が必要なんだ」とその日闇金に返済する必要があった利息分の3万円の借金を要望。
のちに小川は「西内さんの身なりが良いので、カネを持っていると思った」と供述している。
しかし同年8月下旬に会長宅の2階窓ガラスがくり抜かれて中が荒らされる空き巣事件や、同年11月に社員寮で現金50万円が盗まれる事件が発生しており、借金のある小川が疑われていることを知っていた家政婦は、小川の頼みを拒否する。
断られて態度を一変、逆上した小川は西内さんの喉に手をかけて突き飛ばして転倒・気絶させ、2階の事務室にあった会社の現金約175万円が入った封筒を強奪した。
発覚を恐れた小川はまだ息のある西内さんを黒い乗用車に載せ、発車する。車内で意識を取り戻した西内さんの顔面を何度も殴打した。そして強盗現場から約3キロ離れた桶川市内の旧荒川に移動。川幅20メートルほどの奥まった場所であり、日が暮れると明かりも人の気配もない。「ここなら、バレない」。そう思った小川は午後6時50分頃、ぐったりした西内さんを川へ投げ込み、水死させて現場を後にした。
小川は奪った現金のうち13万円をその直後に上尾市内の闇金に返済、翌日も素知らぬ顔で会社に行き、日常生活を送っていた。残りの現金はパチンコに充てるなどした。
発覚と逮捕
事件から2日後の11月20日(土)午後2時頃、同河川で釣りをしていた男性が、西内さんの死体が浮いているのを発見し、通報。顔や頭には酷く殴られた跡があった。会長宅の玄関ドアはオートロックで、外部から無理に侵入した形跡がなかったこと、また屋内で争った形跡がなかったことから、捜査本部は顔見知りによる犯行と見て捜査を進めた。
犯行の時間帯に高齢の女性を車に運び込ぶ大柄な男を目撃したとの証言があり(病人を病院に運ぶものと思い通報には至らず)、目撃車両と似た車に乗り、体格も似ていた小川が被疑者として浮上、車から西内さんの血痕が見つかるなどしたことから容疑者と断定された。
事件から約1ヶ月後の12月21日(火)の朝、さいたま市の自宅で出勤の支度をしていたところを訪ねた捜査員に任意同行を求められた小川は最初は容疑を否認するも、車から血痕が発見されたことを告げられると観念した表情を浮かべ、何も知らなかった家族の前から連れていかれた。(「闇金の借金は妻にも話していなかった」と捜査員に漏らしている)
そして強盗殺人罪で逮捕され、翌日にはさいたま地方検察庁に送検された。
逮捕直前に小川の犯行を知らされた勤め先の会社は逮捕前日に小川を解雇していたため(小川がそのことを知るのは逮捕されたあとであった)、逮捕当時は無職であった。
この事件はすぐに「元プロ野球選手による強盗殺人事件」として大きく報道された。
会長宅付近の住民によると、小川容疑者がタクシーを乗りつけて会長宅に入っていく姿は事件の数ヶ月前から度々目撃されていた。ある主婦は「普通の人より体がしっかりしていたから印象に残っていた」と話している。
同年夏頃にはロッテの二軍施設にかつての旧友を尋ねる素振りで姿を見せて選手の控室に立ち入り、すぐに姿を消したことが何度かあったという。ロッテ関係者は「その直後にロレックスの腕時計や選手のクレジットカードがなくなる事件があって選手は被害届を出していた。小川容疑者がやったのではないかとうわさになっていた」と証言しているほか、球団関係者にカネの無心をしていたとの声も上がり、小川が日頃からカネに困っていたことがこのとき明らかになった。
逮捕後、小川は弁護人にこう話している。
ー六本木や銀座の高級クラブで一晩に数十万円使った現役時代が忘れられなかった
ー妻と子供に、元プロ野球選手の家族らしい生活をさせたかった
弁護人は「肩の故障で心残りのまま引退してから、ずっと『プロ野球選手・小川博』のイメージをひきずった」と感じたという。
周囲の人々の反応
逮捕後、かつて栄光の中にいた小川の成れの果てに、周囲は驚きを隠せなかったようだ。
ある知人男性は「プロ野球選手のプライドを捨てて、運送会社などでアルバイトをした。新聞広告で見つけた今の職場でも、昨年1月から懸命に働いていた」と語った。
近所の主婦(47)は「紳士的なイメージで、事件を起こすような人には見えなかった。奥さんとお子さんのことを考えると、これからどうしていくのか心配です」と話した。
10年来の仲という女性(38)は「人が喜んでくれるのを見るのが好きな人。明るいが気弱なところもあった。人がいいので困っている知り合いに金を貸して逃げられるなど、何度かだまされた。出勤の支度中だった。愛する家族の前で連れて行かれて、子供がかわいそう。どれほど追い詰められていたかは、奥さんも知らなかったと思う。気づいてあげられれば・・・」と無念さで声を詰まらせた。
家族ぐるみで交流があったという同じマンションに住む女性(40)は「子供のことを一番に考える子煩悩な人。息子さんにも無理に野球を教えず、好きなサッカーをさせていた。家庭でも絶対に手をあげない人だったのに、あんなことをするなんて…」と涙ながらに語っている。近所の住民からは「いつも笑顔で温厚だった」と評判であったという。
コーチ時代の小川を知る東京中日スポーツの後藤慎二記者は「大学の総長と一緒に入団交渉に臨んだことが誇らしげでした。現役時代は考えた投球で打者を手玉にとるのが楽しかったのだとか。酒好きで、二日酔いで投げたときの話なども聞かせてくれたことがありました。明るい性格で現役を退いてからは独学でトレーニングコーチを務めていました。丸顔で目が大きい彼は選手の面倒見もよく、同じ青学大出身の清水(当時ロッテ)をかわいがっていて『あいつは英語のわけわからない授業に閉口したらしいけど、おれは頑張って授業に出て卒業したよ』と話していました。日焼けした顔の、あの人のいい小川コーチが間違いを犯したとはどうにも信じられません」とショックを受けていた。
地元・群馬の新聞には高校時代のチームメイトらからの声も。
「おれたちのエースが」―。小川博容疑者(42)の逮捕から一夜明けた二十二日、前橋工高野球部の元ナインらは無念さをにじませた。
上毛新聞 2004/12/23
前橋市内に住む同級生の男性は、内野手として小川容疑者とともに甲子園の土を三度踏んだ。小川容疑者は当時、投球技術の高さと甘いマスクから「群馬の玉三郎」の愛称で県内外から注目されていたという。男性は「明るく気さくで、野球センスは天才的だった。自分たちのヒーローがこんな凶悪事件を起こしたなんて信じたくない」と肩を落とした。
小川容疑者は昨年の野球部OB会に参加。後輩の男性は「明るい表情だったが、会場で『(小川容疑者に)多額の借金があるらしい』とうわさを聞いた。まさか事件を起こすことになるとは」と振り返った。
三年生当時の主将は「ニュースで逮捕を知って驚いた。まさかという感じ」と言葉少な。一年先輩の男性も「一年の秋からエースで部員の信頼も厚かった。一緒に野球した仲間なのに」とショックを隠さなかった。
OBの逮捕を受け、同校野球部は同日、部員に対して事件を説明し、動揺せずに練習に打ち込むよう指導した。
元同僚の高沢秀昭は「問題ありそうな態度ではなかったし、辞めたときも普通の退団だと思っていたから(驚いた)」とコメントした。
ある球団関係者は「家族をとても大事にしていた。身の丈に合った生活ができなかったのだろうか」とため息まじりに思い遣った。
「振り返ると誰もいなかったのか」「1歳で養子に出された影が、つきまとっていたのかもしれない」高校時代の恩師は、凶行に走った小川の孤独を想った。
その他、「選手の面倒見もよく明るい性格だった」「酒は飲むが服装も普通で、派手な生活を送っているようには見えなかった」「ギャンブルや酒にのめり込むタイプではない」「借金をしているようには見えなかった」「女性の噂もなかった」との声もある一方で、ロッテ現役時代の同僚は「性格は軽い奴だった。世渡り上手で、相手の顔色を見て持ち上げるような、人をうまく利用しようとするタイプ」と指摘した。
小川がロッテに入ってすぐに取材に行ったことがあるという大手スポーツ紙記者は事件から10年後、「ぶっきらぼうな上に生意気な口の利き方で、『人との話し方をわかっていないな』という雰囲気だったよね。ずっと“お山の大将”で野球をやってきて、怖いもの知らずだったんじゃないかな」と振り返っている。
現役時代にロッテ監督を務めていた有藤道世はサンデーモーニングのインタビューで「目の前にいたら『死ね』って言ってやりたい」と語った。また、「そんな大それたことをする奴じゃないはず。同じ野球人として寂しい」「三万円?その程度だったら貸してやったのに。相談してもらいたかった」とも話した。
プロ野球界への反響
また、この事件はプロ野球選手のセカンドキャリア問題がクローズアップされるきっかけとなった。
石井晃(『朝日新聞』編集委員)は「本事件は、プロ野球界がこれまでセカンドキャリアの問題に真剣に取り組んでこなかったことの弊害が出たといえる。引退後もコーチ・解説者としての仕事が保証されている元選手はほんの一握りだ。プロ野球界は本事件を選手たちの将来を考えるきっかけとして、選手たちが引退後に野球を離れても社会人として生活できるよう、対策を立てるべきだ」と指摘・提言した。(もっとも、小川の場合は引退後に球団に残ってコーチ職を務めていたわけで、セカンドキャリアとしては恵まれていたと言える。そしてその後球団から解雇されたのは本人の問題であり、本件とは関係のない話である)
大坪正則(元ヤクルトスワローズ経営コンサルタント)は「引退後に野球評論家・コーチなど(野球関係)の仕事に就けるプロ野球選手はごくわずかで、ほとんどは野球と無関係の職業を探さなければならないが、小さなころから野球漬けの生活をしてきた元プロ野球選手の生活は厳しい」と指摘した上で、「NPBが運営する選手年金を拡充したり、高校野球の指導者として元プロ野球選手を受け入れたりすべきだ。特に、元プロ選手が高校野球の指導に携わればプロ野球の裾野も広がる」と提言した。
小林至(元ロッテ投手・当時は江戸川大学教授)は「Jリーグ・競輪界は引退後のセカンドキャリア支援が充実しているが、旧態依然とした球界は遅れている。プロ野球選手と一般社会との乖離は激しく、入団当初から引退後の生活を考えるようにさせる意識改革が必要だ」と提言した。
江本孟紀(元阪神タイガース投手・野球評論家)は「元プロ野球選手にとってベストなのは、野球関連の職業(高校野球の指導者など)に再就職できるようにすることだ」と提言した。
小川が逮捕された翌日、豊蔵一(当時のセ・リーグ会長)は「プロ野球全体をおとしめるような事件で残念」と、小池唯夫(当時のパ・リーグ会長)は「どういう事情でこうなったのか」と沈痛な表情を見せ、「NPB(日本野球機構)として今後、何らかの対応策を検討していかなければならない」との共通認識を示した。
母親への手紙
逮捕翌月の2005年1月中旬には妻と小学生の2人息子が去っていき、手紙を含め小川との関係を完全に拒絶した。
小川の現役時代に球場に足しげく通っていた養父は1993年に亡くなり、以後も小川は養母に度重なるカネの催促をしていたため愛想を尽かされてしまっていた。
逮捕の翌月である2005年1月、疎遠になっていた養母(当時72)に宛てた手紙には、見栄を張るために堕落していった自身の人生を振り返る文章が綴られていた。
ー身勝手でわがままばかりの人生だった
ー周りの人に良いかっこばかり見せていた
ーどこかでプライドを捨て切れなかった
ーこれで(前妻の子を含め)3人の子供を捨てたことになってしまいました。私はバカな男です。母さん、長生きしてこのバカな男が帰るのを待っていて下さいますか。
大学ノートの切れ端に書かれた手紙を手に、母は「優しい子だったのに……」と泣いた。「子供ができず、養子の博を溺愛した。でも2年前に初めて『もうお金がない』と突き放してしまった」と悔いた。
手紙の最後はこう結ばれていた。
母さん、どうか元気でいて下さい。私はガンバッて罪のつぐないをして来ますので。きのうも手紙を書きましたが、書ける時は母さんに手紙を書く様にします。もう母さんしか書く相手がいなくなりました。返事下さい。博より。
裁判、そして判決
2005年1月11日、小川は起訴される。2月28日に開かれた初公判の罪状認否では起訴事実を大筋で認めたものの、「初めは殺すつもりも現金を(無理矢理)取るつもりもなかった」と計画性については否定。
小川の弁護士も「借金を断られたことに逆上し、カッとなって被害者を突き飛ばしたら失神した。動転した中で偶然目に入った現金を取った。犯行を隠そうと被害者を車で運んでいた途中で殺意が芽生えた」と主張した。
一方でさいたま地検は冒頭陳述で「小川は借金を断られた時点で被害者を殺害し、現金を奪うことを決意していた。犯行後、会社の同僚・借金先の闇金業者にアリバイ工作を頼んでいた」と指摘。
7月7日、検察は小川に無期懲役を求刑。
そして9月29日、さいたま地方裁判所にて求刑通り無期懲役の判決が下される。
強盗致死傷罪
刑法第二百四十条
強盗が、人を負傷させたときは無期又は七年以上の懲役に処し、
死亡させたときは死刑又は無期懲役に処する。
判決理由で「前後の見境もなく借金を重ね、犯行のきっかけとなった返済金も捻出できなくなった。殺害現場(旧荒川)に向かう車内で被害者の顔面を赤紫色に変色するまで殴り続けるなど、犯行態様は冷酷・悪質・残虐だ」と指摘した。その一方で、弁護人の「最初から被害者を殺害する意思はなく、事後強盗殺人罪に該当する」とする主張を認め、「小川が被害者を突き飛ばした時点で殺意を有していたとは認められない」と認定したが、量刑は減軽されなかった。
無期懲役は重すぎるとして東京高等裁判所に控訴した小川であったが、2006年2月23日に第一審・無期懲役判決の支持および控訴の棄却(控訴審判決)が言い渡された。同裁判長は判決の中で「引退後も浪費を重ねて金銭的困窮に陥ったのが原因で、動機に酌量の余地はない」などと指摘し、「結果の重大性を考慮すれば、第一審判決の量刑は不当とは言えない」と結論づけた。
判決の中で当事件は「元プロ野球選手によるセンセーショナルな事件」と表現された。
日本のプロ野球の歴史においては、交通事故、八百長、闇賭博、脱税、婦女暴行、強制わいせつ、薬物使用といった不祥事が発覚し、選手や元選手が検挙された事例はあったが、殺人事件は現在に至るまで小川ただ一人である。(2021年2月現在)
こうして小川の刑は確定し、千葉刑務所に収監された。
そして服役へ
服役中の小川に関しては情報が少ない。
2007年頃に知人に宛てて書いたという手紙には、後悔の念が綴られている。
1976年に強盗殺人事件を起こして30歳で無期懲役判決を受け、以後31年間を刑務所で過ごした男・金原龍一氏が出所後に著した書籍「31年ぶりにムショを出たー私と過ごした1000人の殺人者たち」には、小川に関する描写がある。
小川の無期懲役が確定すると、千葉刑務所では早くも「奴はどの工場に配役されるか」という賭けが始まった。埼玉で事件を起こした小川は、これまでのケースから言ってほぼLA刑の「千葉送り」になることが確実と見られたからである。
金原龍一 31年ぶりにムショを出た―私と過ごした1000人の殺人者たち (2009/8/31)
平成18年(2006年)予想通り千葉刑務所に入ってきた小川だったが、「プロの片鱗」を期待していたソフトボールチームのメンバーはいっせいに落胆した。というのも、もともと細身だった小川の体は、長く野球から離れていた間にさらに細くなり、60キロほどにまで落ちていたからである。ちなみに小川の身長は175センチ程度だった。
それでも、そこは元プロ野球選手。さすがに一般人とはモノが違うだろうということで、小川の「ソフトデビュー」は異様なまでの注目を集めた。
私は残念ながら、その試合を生で観戦することができなかったのだが、彼が守っていたのはショートで、打撃のほうは「ノーヒット」「いいところなし」だったと、当日の目撃者から速報が入ってきた。
小川はバインダー工場を経てその後炊場に入ったため、私は出所前、上がり房にいるとき何度か、黙々と働く彼の姿を見た。そこには元プロ野球選手の面影はなかったが、彼には体が動く限り、グラブとバットのそばにいて欲しいと思う。
収監から15年ほど経ち、59歳を迎えようとする2021年2月現在も服役中である。別の刑務所に移った可能性もある。
刑務所ではテレビや新聞も見ることができるし、ソフトボールなどの運動の時間もある。もし小川が刑務所内の人たちと打ち解けていたら、野球の試合などを観るたびにきっと野球ネタや球界の裏話でも披露しているかもしれない。
日本には現在1,800人ほどの無期懲役囚がいる(死刑囚は115人ほど)が、仮釈放される人数は例年一桁である。なお仮釈放には模範囚として約30年以上の服役のほか、身柄引受人の存在や社会復帰見込みの高さ、世論や遺族感情の面で問題がないか、などが実質的に条件となっている。
逮捕翌月に養母へ宛てた手紙には「長生きしてこのバカな男が帰るのを待っていて下さいますか」と綴っていたが、ご存命でも既に89歳。
仮に30年目、小川が73歳の頃に仮釈放されたとしても、そのときの望みが叶う可能性は極めて低いといえる。(ただし無期懲役囚でも親族などとの面会はできるので、収監後も何度も会っていると思われる)
余談
球史でも指折りの名シーンである伝説のダブルヘッダー「10.19」の試合がテレビで再放送されないのは、小川の影響であると言われている。(第2戦だけ取り上げられたりする)
事件以来、プロ野球選手やOBが犯罪を起こすと「最悪のケース」として小川の名が取り上げられることが多い。
小川が現役時代に付けていた背番号26番は、2004年限りで現役を引退した酒井泰志元投手を最後に欠番となっている。以後千葉ロッテマリーンズは「26番目の選手」(1試合に出場登録できる選手が25人のため)という意味のファン向けの背番号としており、事実上の欠番となっている。(始球式の際などにはこの番号のユニホームが使われることもある)
もともとロッテは永久欠番を作らない方針であり、小川の事件のタイミングとも被ることから、これは26番を欠番にするための表向きの理由であるとされる。しかし、ロッテファンの間では小川の事件前から既に「26番目の選手」という意味で「26」という数字が認識されていたとの声もある。
2016年に刊行された吉田修一氏による短編小説集「犯罪小説集」では、小川の人生をモデルとした「白球白蛇伝」という物語が描かれている。
2018年8月21日、ロッテ球団設立50周年記念試合が東京ドームで行われた。試合後のセレモニーでロッテに籍を置いていた選手らの名前がバックスクリーンに放映されたとき、小川の名もそこにあった。
2022年2月22日には、「世界!仰天ニュース」にて小川の特集が組まれ、話題となった。
小川博という男
振り返ると、小川がプロ野球選手として強い輝きを放ったのは1988年だけであった。
しかしそこで評価と年俸が一気に跳ね上がったことで見栄も金遣いも生活レベルも上がり、後に引き返せなくなった。それが事件の遠因になったとも言える。いきなり活躍し、まさにこれからのはずだったのに、翌年には右肩を負傷して思うように結果を出せなくなった。だからこそ尚更、そのギャップに苦しんだのかもしれない。
もともと金遣いが荒かったところに拍車がかかり、見栄と欲にまみれて身の丈を知らず浪費に走り続けた。小川の現役選手時代はバブルの時期と重なる。色褪せてゆくあの頃の輝きを追い求めるうちに自制心を失って窮状に陥り、次第に盲目と化した。常にカネを渇望し、周囲への借金や無心を繰り返す卑しい存在へと堕ちていった。そして借金や窃盗を繰り返すうちに「なんとかなる」と感覚を麻痺させていった。厳しい練習に耐えてきたはずの精神は、目先の欲に衝き動かされるケダモノのそれへと成り代わってしまった。多くの信頼を失いながらも家族には良い顔ばかりを見せ続け、苦悩を打ち明けることができなかった。そしてその最愛の家族すら失ってしまった。
小川はある種の依存症だったのではないだろうか。自己破産して再起を誓ったあともまた借金を重ね、会長をはじめ周囲から失望されていた節もあっただろう。会長宅の空き巣被害や社員寮での窃盗についても疑いの目を向けられていた小川の居場所は、家庭だけだったのかもしれない。
あの日、返済期限の30分前に強盗そして殺人を犯すほどまで追い詰められたのは、恐らく闇金業者から強い脅しがかかっていたのだろう。妻は小川が借金していることを知らなかったというから、それまで家に取り立てはきていなかったか、あるいは返済期限を過ぎたことはなかったのかもしれない。
そしてこの日返済期限を破るという行為が意味するのは利息が増えることだけではなく、取り立てなどによって小川が借金している事実を家族に知られてしまうことであったのかもしれない。そうなれば「良い夫・良い父親」像が崩れてしまい、家族の失望は免れない。唯一の居場所を失うことを恐れて追い込まれるあまり、我を失ったのだろうか。
小川は事件の少し前、利息3万円分を返済するために他の闇金業者から10万円を借りてパチンコで溶かしてしまっているが、さらに別の闇金から借金するという手段も本来ならあったはずだ。そうしなかったのが「他の闇金業者からの借金は最後の手段にしたかったから」とは考えにくい。
であるならば、自己破産もしている小川の情報が近隣の闇金業者界隈で共有され、貸しても焦げ付くという印象を生み、相手にしてくれる業者が少なかったのか、あるいはそもそも業者自体が少なく、既に借り尽くしていたのか、探しきれなかったのか。それらは定かではないが、もし一つ目であった場合、その取り立ては闇金業者の中でも特に厳しいものであっただろう。(信用度の極めて低い人に貸すとなれば飛ばれるリスクが高いため、業者としても相応の姿勢で臨む必要がある)
もしパチンコに行っていなかったら、あるいはもしパチンコで勝っていれば、もし訪ねた友人が在宅だったら、もし会長が在宅であったなら、もし目撃者に通報されていたら、人が死ぬことはなかったかもしれない。
それでも、自己破産後も懲りずに闇金業者から借金を繰り返した男だ。いずれにせよ小川は墜ち続けていっただろう。見栄を張ることなく、等身大の自分で生きることを、自ら決断しない限りは。
関連記事1:小川のキャリアハイである1988年に生まれ、彼と同じく群馬で育ち、同じく甲子園のアイドルとなり、同じく東京の大学野球で活躍し、同じくプロ入り(パ・リーグ)し、同じくオールスターに出場し、同じく通算26敗し、同じくポルシェに惹かれたとある男の伝説
関連記事2:仮釈放の可能性を放棄する無期懲役囚の獄中作家「美達大和」の正体について
関連記事3:死刑や無期懲役になるために犯罪を起こすのは合理的なのか?について
参考/引用記事
sensagent 元千葉ロッテマリーンズ投手強盗殺人事件
フリー百科事典 Wikipedia 小川博
フリー百科事典 Wikipedia 元千葉ロッテマリーンズ投手強盗殺人事件
フリー百科事典Wikipedia 1988年のロッテオリオンズ
2689web.com 日本プロ野球記録 小川博
2689web.com 日本プロ野球記録 ロッテオリオンズ成績 1988
2689web.com 日本プロ野球全記録 日米野球 1988
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asahi.com 元ロッテ投手を強盗殺人容疑で逮捕 埼玉の女性殺害 (2004/12/21)
デイリースポーツ 元奪三振王ロッテ小川 借金苦で67歳女性を殺害!川に投げ込む非道ぶり (2004/12/22)
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東京中日スポーツ 元ロッテ投手の小川博容疑者逮捕 (2004/12/22)
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読売新聞 家政婦殺害、元ロッテ投手を強盗殺人の疑いで逮捕 (2004/12/22)
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東京中日スポーツ 元ロッテ投手の小川博容疑者逮捕 借金断られ175万円強奪 同僚女性川へ投げ殺害 (2004/12/22)
YOMIURI ONILINE 元ロッテ投手の強殺、30分後が「ヤミ金」返済期限 (2004/12/23)
日刊スポーツ 「元ロッテ投手逮捕」球界動く (2004/12/23)
ZAKZAK 元ロッテ150キロ右腕の転落人生…強盗殺人で逮捕 (2004/12/25)
読売新聞 奪三振王の暴投…離婚慰謝料で借金、最後はヤミ金に (2004/12/25)
nikkansports.com 元プロ野球選手を起訴 (2005/1/11)
毎日新聞 埼玉女性強殺:元ロッテ投手初公判、起訴事実ほぼ認める (2005/2/28)
毎日新聞 強盗殺人:孤独な元ロッテ投手 母に「待ってて」 (2005/3/12)
mixi 我が愛しのアスリート図鑑コミュの10.19? (2008/05/31)
Livedoor NEWS ロッテの選手たちも近鉄を応援した「10・19」ダブルヘッダー (2013/12/22)
THESPORTSTER Top 25 Longest Athlete Prison Sentences of All Time (2014/9/12)
みんなが寝静まった頃に 元プロ野球選手は何故、人を殺めてしまったのか?…獄に下ったヒーロー・小川博の真相 (2016/12/28)
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楽天Infoseekニュース 殺人者となった元プロ野球選手・小川博 豪遊生活が止められなくなり借金を重ねた結果…|八木澤高明 (2018/7/27)
世界仰天ニュース「小川博」 反省会 : なんJ(まとめては)いかんのか? (livedoor.jp) (2022/02/22)
小川博受刑者 プロ野球選手から強盗殺人犯に 獄中から知人へ手紙「なぜあんなことをしてしまったのか」(スポニチアネックス) – goo ニュース (2022/02/22)
コメント
どうして2人を殺めているのに.死刑にならないのか私には納得できませんよこやま
ふたり?
ひとりじゃないの?