2019年5月上旬のある平日の朝。
私は大学の友人であるKとともに、茨城県を北上していた。
雲一つない空の真下、Kの軽自動車がハイウェイをかっとばす。
視界が、次第に山々で茂ってゆく。
しばらく進むと、大吊橋を正面に現れた。
駐車場に車を停めて、ある建物へと向かう。
「10時から予約しているKです」とKがホザき、ここで働くお兄さんから参加同意書なるものを渡される。
「決して安全ではありません」「危険を伴う」「激しい」「怪我する恐れ」「賠償請求を行わないことを誓います」「リスクに同意します」「リスク冒さずに、報いはありません」その他何やら物騒な文が並ぶ。
サインを済ませると建物の奥に案内され、現金を出すよう指示され、機械になけなしの現金を投入する。
装備を身に付け、なにやら説明を受けたあと、貴重品も入っているバッグをその場に置くことを求められ、それに従い手放す。
そして、74という数字を与えられる。
ここにいるのは、もはや私ではなく、74番。
これから74番としての時間を過ごすことになるのだ。
さっきまでKだった67番は、何かに怯えたかのように、トイレに籠もってなかなか出てこない。
歩行者専用の橋として日本最大級の長さ(全長375m)を誇る竜神大吊橋を渡る。
両脇には魚を象ったヒラヒラしたものが大量に吊し上げられて風になびいている。
太宰治に少し似ていると私の中で最近評判の67番はここでまたビビりはじめる。
先ほどトイレを済ませていたとはいえ、彼のためにパンパースを用意しておいた方が良かっただろうかという考えが脳裏をかすめる。
橋の脇に設置された小さな扉をくぐって階段を下り、装備を身に着けるようにとの司令が下る。
「僕が先に行きます」
意外にもそう宣言した67番は、こわばった表情を浮かべながら、速やかに視界から消えていった。
足場の先から恐る恐る下を覗くと、彼はまるでこのダム湖から釣り上げられた魚のように、あるいは古よりこの辺りに生息すると言われる伝説の巨大魚・ジャイアントボンバーヘッドをおびき寄せるための餌のように、情けなく無防備に宙に揺られつづけていた。恐らく色んなものを滴らせて、ダム湖の水かさを上げることに僅かながら貢献しているのだろう。
「はい次、74番」
厳つさの奥にどこか慈悲深さを感じさせるお兄さんに呼ばれる。
「はい」
少し緊張したような、平常時よりもやや高い声でそれに応える。
67番と同じく、私もいよいよここから身を投げるときがやってきた。
足を1本に束ねられ、いざ飛び降りるための足場に立ってみると、一瞬背筋が凍った。
大丈夫、奴はトベた。俺がトベなくてどうする。誰が世界を救うんだよ。
「そこ、74番、さっきからブツブツうるさいぞ!」
「後がつかえてるんだ、早くいけ!」
などという声が聞こえてくるような気がする。
斜め後ろのお兄さんたちの表情が険しくなるのを感じる。もう、いくしかない。
5から始まったカウントダウンは2秒以内に収まるほどのスピード感であったため、心の準備も不充分に、無防備に宙へと放たれた。
今までになかった、捉えどころのない感覚が全身を襲う。一生物個体が根本に有する生存本能の当惑を感じる。
顔面に風圧がのしかかる。身体って結構重いんだな、と感じる。飛び降り自殺の最初の一歩って、相当勇気要るんだろうな。でも一度飛び出してしまえれば、一瞬で死ねそうだな。
水面飛び込みのギネス記録は52.4mだという。ロープもないのだから、想像を絶する恐怖感だろう。
落下しながら、時間の進み方の変化を感じる。湖の中に、まばゆく輝く白い光が見えた。その光が急速に強く、大きくなってくる。その中にナニカが見える。何だか懐かしいようで新鮮な感覚。
次の瞬間、まるでデロリアンが時空間移動するかのような感覚とともに、過去の出来事が次々と脳内を駆け巡りはじめた。
ほぼ同時に、見えていた光が私の身を包み、まるで私自身が発光しているかのような感覚に陥る。なるほど、これが走馬灯ってヤツか、と直感的に理解する。水面への接近に反比例するように、意識が天へと登ってゆく。
留学先で住んでいたホステルの共有スペースで、ストリートでの日銭稼ぎのためにマイケル=ジャクソンのダンスを練習するベネズエラ人の華麗なステップ
大学3年の秋、酒気帯びで参加した1限のソフトボールの時間にフライ球を取り損ねて軽く切った下唇のじんわりとした痛み
高校時代、授業中にガムを噛んでいた疑いをかけられ呼び出された際に「昼食時に食べた肉が歯に挟まっているからそれを取るためにモゴモゴしていただけだ」と言い訳したときの担任の半信半疑の表情
中学の校舎の3階の窓から手を振ってくる後輩に手を振り返したら2階にいた同級生が戸惑いながら振り返してきて気まずくなったときに吹いた風
“筋肉同盟”の名のもとに描いたドラえもんとデスノート、北斗の拳などのコラボ漫画を小学校の教室で読むクラスメイトたちの笑い声
保育園のお遊戯会の舞台の上で、果てしなく広く見えた観客席に親が見当たらずに呆然と立ち尽くして失禁し、泣きながら保育士に舞台袖に引きずられていったときの絶望感
生まれて初めて二足歩行に成功したときの母の喜びと安堵の表情
産声の直後に喉に流れ込み肺に染み込んでゆく空気、瞬時に膨らみはじめる一つ一つの肺胞…
そして、産道を逆流し、私は子宮で頭を逆さにうずくまっていた。
身体がみるみる縮んでゆく。分化していた細胞が次々と合体し、形質を変容させ、単純化してゆく。
16細胞、8細胞…そして、私は1つの細胞になった。その細胞から1つの小さなモヤシのようなものが飛び出そうとしている。ほぼ同時に、世界が暗闇の中にズズッと丸ごと吸い込まれていくかのような感覚とともに、私は意識を失った。
気が付けば、私は束ねられた足を真っ青な天に向けたまま、宙ぶらりんで揺れていた。空中で何度かバウンドした感覚が、ほんの少しだがまだ身体に残っている。大丈夫、ズボンは濡れていない。
果てしない静寂が辺りを包む。全てがほんの一瞬の出来事であった。
はるか頭上からの吠えるような声がその静寂を破る。
事前に説明されたようにヒモの一部を引っ張ると、束ねられた足は解放されて水面に振られ、失禁によって腹や首筋が濡れる可能性が排除される。
直後に黄色い歓声が聞こえてきた。振り返ると、遠足中の園児集団が、遠くの対岸から手を振っている。地球を危機から救って還ってきたかのような心持ちで、私は手を振り返した。
釣られた魚のようにずるずると上に引っ張り上げられていく。お兄さんが今朝摂取したオニギリか何かに含まれていたカロリーが消費される代わりに、あるいはマシンが電力を消費する代わりに、私は失った位置エネルギーを徐々に取り戻していく。そして、日常も。
茨城県にある、100mのジャンプができる竜神大吊橋の「竜神バンジー」。
気になる料金は税込16,000円。この往復200m移動と東京大阪間500km移動の金額がほぼ同じとは。
なお、別料金で撮影オプションもあり、最初に受付で撮影の有無を聞かれるが、注文しなくても撮影され、あとで再度打診される。そこで注文しなかった場合、後日からでも注文できる旨を伝えられるという三段構えとなっている。高いので注文しなかった。
2023/01/08追記:税込19,000円に値上がりした模様。215mの「岐阜バンジー」が2020年にオープンして日本一の称号を失ったにもかかわらず強気の姿勢。岐阜バンジーは28,000円。フリーフォール1分間のスカイダイビングとほぼ変わらない。
体調が悪い人や持病を抱えている人はジャンプ不可。事前の飲酒も不可。
体重制限や年齢制限もあるので詳しくはホームページへ。
なお、世界を見渡せば300m超えのバンジージャンプもある。
帰りに茨城大学を初訪問し、イバ大は俺に任せな!と言わんばかりのポーズをカメラに収めておいた。
次は、スカイダイビング。恐いけどいつかウィングスーツもしてみたい。
*走馬灯のエピソードは概ねノンフィクションですが、走馬灯を見たというのはフィクションです。あと、その他の描写もところどころフィクションです。例えば、番号は付与されますが実際に番号で呼ばれることはありません。丁寧な対応でした。
2019.05.10
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