自分らしさとは
世の中には数多の幸福論が氾濫しているが、私は「幸福の絶対条件は自分らしく生きること」であると考えている。
自分らしさとは、自分の性質、そしてそこに経験を織り交ぜる中で形成される、自分にとって大切な価値観(≒欲求)のこと。
つまり、自分らしく生きている状態とは、自分の性質と価値観(欲求)を理解し、それらに素直に生きている状態のこと。
性質の例としては、愛情深いだとか怒りっぽいだとか小心者だとかということが言えるが、それは一種の癖のようなものであって、自分の求めるものであるとは限らない。
より重要なのは、「どう生きたいか」という価値観(欲求)の方だ。
私の場合、自分の大切な価値観のキーワードは抽象化すると「愛」「勇気」「自由」「余裕」「合理性」「独自性」「刺激」あたりに集約される。これらは、自分にとってほぼ揺るぎない憲法の拠り所となる要素である。細かく言語化して理解を深める分にはいいが、細かい運用ルール(法律・細則)を定めて自らを縛る必要もない。
自分にとって大切な価値観を知らなくても自分らしく生きることは出来るだろうが、納得感や決断スピード、自分の人生に関する問題発見精度・速度が違ってくるのではないかと思う。
自分の価値観を把握するには
感情→論理
では、どうすれば自分にとって大切な価値観を知ることができるのか。
答えはシンプル。感情や欲求を掘り下げ、噛み砕くのだ。
感情そのものだけでは、自分らしさを追求するのは難しい。
例えば、イルカショーを見た人々の多くは「おもしろい」「たのしい」「すごい」「かっこいい」などという似通った感情を抱く。
しかし、どういう脳内回路でそのような感情を抱いたかは、十人十色であり千差万別だ。
自分らしさを理解するには、感情を感情のままで終わらせず、
己の素直な感情に”WHY”を投げかけることで掘り下げ、噛み砕き、分解し、
その中に通る論理を見つけ出す
という工程を経るのが有用だ。
そうして導かれた論理にこそ、自分の価値観が表れる。
「なぜ自分はこの論理を導き出したのか」「その裏にはどんな欲求があるのか」を考えることで、自分にとって大切な価値観(欲求)を理解することができる。
論理→感情
そうやって導かれた論理をさらに噛み砕こうとすると、最終的には感情に行き着く。
感情と論理は、多くの場合サンドウィッチ構造をしている。感情の要因に論理があり、その論理の要因に感情がある。感情はフワフワとしたパン、論理はしっかりした具材、といったイメージだ。(私はこれを「論理と感情のサンドウィッチ理論」として提唱する)
例えば、
「インターンシップに参加したい」(感情)
WHY? (どうしてインターンシップに参加したい?)
「ビジネスや会社での仕事について学ぶことができ、それによって将来の職業選択の際に活かすことができる」(論理)
WHY? (どうして学びを将来の職業選択に活かしたい?)
「自分に合った職業を選択できれば、やりがいを以て仕事に取り組むことができるから」(論理)
WHY? (どうしてやりがいを以て仕事に取り組みたい?)
「人生の多くを占める職業生活というものにやりがいを以て取り組むことができれば、人生が充実し、幸せに過ごせる可能性が高いと考えられるから」(論理)
WHY? (どうして幸せに過ごしたい?)
「幸せに生きたいから」(感情)
このように、最終的には「幸福」などという根源的な欲求に行き着く。
これ以上掘り下げるのは実務上ナンセンス。
最初の感情をデンプンに例えるなら、”WHY”がアミラーゼなどの様々な消化酵素で、最後の感情はブドウ糖。
最初の感情をタンパク質に例えるなら、”WHY”がペプシンなどの様々な消化酵素で、最後の感情はアミノ酸。
なお、ここに示したものはあくまで一例に過ぎず、着眼点に応じてWHYの中身も変わる。
重要なのは、
- 感情と感情の間にある様々な論理から自分の価値観を知ること。
- 自分にとって重要なWHYを設定すること
- 着眼点を変え、他のWHYも含めて考えること。
また、先の例の場合、職業生活を送ることを前提とした思考で話が進んでいるが、そもそもその論理すらも疑って考える。自分一人の視点では狭い見方しかできないので、他の人に尋ねて新たな着眼点を得てみるのもいい。
そして、「これは自分にとって大切な価値観だ」と感じたなら、キーワード化してみる。(例:刺激、合理性)
大学時代、様々な出来事に紐づく感情や思考を都度言語化する中で、「自分はこれを大切にすれば自分らしくいられる、ハッピーでいられる」ということが分かってきて、生きるのが随分と楽になった。
非日常に身を置く
自分にとって大切な価値観への理解は、苦難の中や非日常状態において大いに促進される。平常時には発揮されない自分が表に出やすいからだ。
そうした状況下で、望むとも望まずとも自分自身にしっかりと向き合う(向き合わざるを得ない)中で、感情が様々に掻き乱され、試行錯誤して這いずり回るうちに、普段は見えない自分の側面がたくさん浮かび上がってきて、気付きが得られ、哲学が磨かれ、納得感が生まれ、精神的に成長することができる。
絶対視しない
ただし、「自分らしさ」とは可変的であり、絶対視すべきものではない。
「自分はこういう人間だからこうあるべきだ、そうでなければならない」などと考えてしまい、他の可能性を自ら閉ざしてしまうことになりかねない。歳を重ねると、あるいは変化のない状況に身を置き続けると、柔軟さが失われてしまいがちだ。
では、「自分らしさ」というものが存在しないのかと言えば、無論そうではない。ただ、価値観は変わるし性質も変わる、というだけの話。
その事実を認識し、「今の自分らしさ」を絶対視せずに、柔軟なスタンスで生きた方が精神的に自由でいられる。
2017.02
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