人生は、放浪期と安住期の、様々なスケールでの繰り返しだ。
分からないなりに色んなものに手を出しつつ模索し、何か「これだ」というものが見つかればそこに集中する。
自由に色んなものに手を出せる大学生と、仕事が生活の多くを占めざるを得ない社会人という対比、はたまた、広く浅く教養に触れる大学1-2年生と、絞られたテーマに取り組む3-4年生という対比もある。
そして私は間違いなく、放浪期的傾向が様々な方面において色濃い。
色んな世界や関係を観てみたいという好奇心。
景色の変わらぬことの飽和感。
成長の停滞や埋没、機会の損失への危機感。
人生には無限の選択肢、無限の可能性が存在する。テレビゲームの比ではない。
選択肢の多さは人生に自由を与えるが、同時に納得感を奪いにくる。
もっと良い選択があるんじゃないかという迷いや重圧が生まれるからだ。
無限の選択肢、無限の可能性は、「ここではないどこか」を求めさせて、人を彷徨いつづけさせる。
どんな選択をしたとしても、他により良い安住の地があるかもしれないという思いから逃れることは一生できないのかもしれない。
しかし、充分な放浪を経たのとそうでないのとでは、納得感が違ってくる。
だから、様々な選択肢に触れたいと思う。
例えば、初めて付き合った人と結婚して、他の人はどんな感じなのだろうと後になってソワソワするよりも、納得できるサンプル数を経験してから結婚したい。
そんな風に根無し草でいると、常に「ここじゃない」感とともに、フワフワしたまま過ごすことになる。
すると、”自分の本当の居場所”が存在しなくなったような気がして、いささか不安にもなる。
そんな生き方をしたいというより、少なくとも当分の間は、そんな生き方しかできないような気がする。
しかし、中途半端に世界を知ってしまった、好奇心旺盛な人間が、納得感のある生を全うするには、そうした様々な経験の蓄積が不可欠なのではないだろうか。
2017.09
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